2012.03.08
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南三陸町立歌津中学校 前校長 阿部 友昭さんインタビュー 「大津波の経験を後世の人々に伝えていきたい」

本コーナー「東日本大震災 学校応援プロジェクト」に執筆されていました阿部校長先生。実は体調を崩され、10月7日掲載の記事以降、連載を休止されていました。学校を退職され、療養をなさった結果、現在は、徐々にご回復されているということです。そんな阿部先生が2月4日、神奈川県の平塚市中央公民館で開催された『心の唄 in 平塚』というコンサートに出演されると聞き、学びの場.comはお話を伺うため駆けつけました。

『心の唄 in 平塚』は、東日本大震災の被災地への支援活動と防災意識を高めようという趣旨の下、木谷正道さんをリーダーとする「心の唄バンド」と、障害者施設の進和学園のメンバーで構成された「とびっきりレインボーズ」が良質な歌と演奏で綴るコンサート。
阿部先生(右)も自作のメロディーで町民憲章を熱唱。左は伊里前地区自治会長の熊谷健一さん

阿部先生(右)も自作のメロディーで町民憲章を熱唱。左は伊里前地区自治会長の熊谷健一さん

阿部友昭先生は、4曲目『南三陸のうた』演奏後、ステージ上に登場。同曲は阿部先生が制定の副委員長を務めた「南三陸町民憲章」(※下記参照)に、心の唄バンドのピアニスト・三木靖子さんが曲を付けたもの。コンサートでは同曲以外にも、抒情歌風からロック調までさまざまなメロディーによる町民憲章が披露されました。阿部先生は、
「このような『心の唄』、そしていろいろなご支援をいただき、本当にありがとうございます。これからも細く長くご支援をお願いしたいと思います」
 と挨拶されました。
「心の唄バンド」の演奏に聴き入る満員の会場

「心の唄バンド」の演奏に聴き入る満員の会場

コンサートはその後、阪神淡路大震災の再現映像等の上映をはさみながら、しっとりと心にしみるナンバーから、思わず踊りたくなるようなノリノリのナンバーまで約2時間半、満員の会場を沸かせました。

コンサート終了後、阿部先生にお話を伺いました。

学びの場.com(以下、学びの場) 今回、ご出演された経緯は?

阿部友昭(以下、阿部) 震災後の昨年5月、木谷さんたちバンドの方々がボランティアの演奏会のため歌津中学校を訪れ、知り合いました。そして8月、「心の唄と落語と晩餐会と線香花火 in 南三陸」というイベントを企画していただき、中学校の体育館で平塚市の皆さんが歌と落語、寿司やフランス料理等のご馳走を振る舞ってくださったのです。
「南三陸町民憲章」は、堅苦しくなく皆で歌えるものをというコンセプトで、2010年11月に町民からの公募で制定しました。その4ヵ月後に東日本大震災が起こり、町民憲章検討委員会の委員長だった田生誠二教育長も津波によって亡くなったものですから。憲章に曲を付け皆で歌い継いでいくことが、教育長の遺志を継ぐことだと思い、木谷さんにも作曲をお願いしたのです。そのような関係から今回のコンサートに参加することとなりました。

学びの場 体調のほうはいかがですか?

阿部 はい、今はもう大丈夫です。一時は、左耳が聞こえなくなる突発性難聴を発症し、同時に体重が15kgほど落ちてしまいまして……。

学びの場 やはり、原因は震災によるストレスですか?

阿部 そうだと思います。自分では(ストレスを)感じていなかったのですが。9月から11月までが最も大変でしたが、現在では、耳も回復し、体重も2kgほど戻りました。

学びの場 では、今後のご予定は?

阿部 教員は辞めましたが、社会教育の分野で活動していきたいと思っております。具体的には、小さな地区ごとに被災者が集まれる拠点を作っていきたいのです。そこでは、被災者同士がお茶やお酒を飲みながら、食事をしながら、語り合い、癒される。あるいは他の地域から来た方たちも一緒に話に参加でき、被災地の声を聞くことができる。すると、我々の経験したことが世の中に少しずつ広まっていくのかな、と。

私のこれからの役目は、今回の大津波について後世の人々に伝えていくことが第一だと考えています。学校のみならず、さまざまな教育現場でお手伝いできればと思っています。

『南三陸町民憲章』
阿部友昭先生の直筆の色紙より

阿部友昭先生の直筆の色紙より

インタビュー・文:宝子山真紀/コンサート写真:岡本 博

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