通知表なんていらない!...って思っているのでこんなふうに渡します。
まさか通知表が法的根拠のない、任意のものだとは知りませんでした。そうだとわかれば、話はぜんぜん違ってきます。
東京都内公立学校教諭 林 真未
通知表は、なくてもいいらしい
通知表を発行するか否かは、学校の裁量に任されているとご存知でしたか。文部科学省のサイト上にも、しっかり「法令上の規定や、様式に関して国として例示したものはない」と書いてあります。
実際、通知表を発行していない小学校はあって、サイトで検索すればいくつも出てきます。
小さい頃からとても大切なものだと信じて疑わず、教師になってからも心をこめて作成していたあの通知表が、必ずしも必要のないものだったとは。
最初はとても驚きましたが、その事実を知ってから、私の意識はどんどん変わっていきました。
考えてみれば、これまでの人生で必要だったことは一度もない
私自身の通知表は私の親が、成人した私の子どもたちの通知表は私が、毎学期末にもらうたびに後生大事にしまっておいたはずですが。
今となっては、いったいどこにしまったものやら、すぐには思い出せません。
考えてみたら、高校や大学の成績証明書と違って、小学校の通知表なんて、もらってから一度も使うことはありませんから、どこにしまったのか覚えていなくても、まったく問題がないのです。もしかしたら、この先一度も再見しないで、一生を終わるかもしれません。
そんな小学校の通知表に、どうして今まであんなにとらわれていたのか。
もっと言えば、小学校の成績そのものが、それほど大事なものではないのではないか。
卑近な例で恐縮ですが、実際、小2の時に硬筆書写の学校代表にまでなった私の長女は、最終的に大学進学しませんでした。
一方で、6年間を通じて、見事に毎学期「もうすこし」がてんこ盛りだった次男は、中1の前半で、小学校時代に学びそびれたことをすべてリカバーし、今では大学生になりました。
彼が言うには「小1の時に理解できなかったくり下がりのひき算が中1の時は一瞬でわかった」とのこと。…そりゃそうですよね。
この話を聞いたとき、なんで私たちは、あんなに必死になって時間をかけて、小1全員に「くり下がりのひき算」をわからせようとしているんだろう?と自分の仕事に思わず疑問を持ちました。
そんなことをつらつら考えているうちに、
小学校は、小さいうちにいろいろなことを教えたり考えさせたり経験させたりする役割だけでもいいんじゃないか。
わざわざそれを、発達の個人差を無視して横並びで評価して、通知表として各家庭に突きつけなくてもいいんじゃないか。
そんな掟破りの思いが、いつのまにか、私の中にむくむくともたげてきたのです。
成績評価さえなければ、こんな愉快な商売はない
「成績評価さえなければ、こんな愉快な商売はない」
いつご一緒した方だったか、同僚の先生のこの呟きに、私は、最初は驚きました。
だって、通知表の存在同様、子どもを評価することは、大切な教師の任務だと思いこんでいましたから。
でも、今は彼の真意が痛いほどわかります。
私の知る限り、先生方は子どもにA、B、Cの評価をつけることを必要悪のように感じていて、評価を出すことも、所見を書くことも、できればやりたくない仕事だと思っています。
その理由を想像するに、おそらく先生方は明確にそう意識はしていないと思うのですが、A、B、Cの三段階評価と150字前後の所見文になんて、子ども一人ひとりの個性を閉じこめられるわけはないのに、それを無理やりやっていることを、なんとなく感じているからだと思います。
もちろんかつての私と同じように、評価が大切とお考えの方もおられます。
けれど、そんな方でも、もし評価をしなくてもいいと言われたら、通知表を作らなくてもいいと言われたら、同調されるのではないかなあ。
そうなったらもう、先生の仕事はパラダイスです。
だって、ただ一所懸命、子どもに良い学習機会を与えることに集中すればいいんですから。
評価的な視点を持たなくても、成績という形で文字化しなくても、日々ともに学んでいれば、その子の学習状況や特性などは十分把握できます。
保護者だって、日々持ち帰るノートやワークシートで、子どもの学習状況を把握することは可能だと思います。
もし必要なら、個別に懸念を伝えればいい。中学受験をするなら、個別に内申書を作ればいい。おそらくほとんどの子どもが、通知表がなくなっても問題ないと思います。
いやむしろ、通知表がなくなったら、子どもたちは、学ぶことを思いっきり楽しめる気がします。
通知表のインパクトを最小限にする
というわけで、すっかり通知表廃止論者になってしまった私は、かつての私と同じように、通知表をとても大切に思っている保護者のみなさんに対して、毎年ささやかなアクションをしています。
みなさんの通知表の見方がかつての私と同じなら、おそらく、所見は一瞥してそれで終わり。それより、通知表の〇が「よくできた」「できた」「もうすこし」のどこについているか、がいちばんの興味の的。どの項目ができているのかよりも、どれがいくつあるか、つまり〇の数しか見ていません。
「よくできる」ばかりの子は、毎回誇らしい気持ちになるだろうけど、そうでなければ、子どもたちは、落ち込んだり、叱られたり。とくに「もうすこし」が多めな子にとっては、それは、毎学期ごとにけっこうな精神的負担。
でも、今まで見てきたように、通知表は法的根拠のない、学校の裁量で渡しているだけのもの。しかも、もしかしたら、もらったきり一生使わないかもしれないもの。のど元過ぎればどこかにしまいこんで、忘れ去られてしまうもの。
それなのに、楽しい長期休みを前に、子どもがしんどい気持ちになることなんてない。
保護者の方にも、通知表なんかに一喜一憂せず、その子自身の、学期を通じた、長い間の頑張りを見てほしい。
そう思います。
だから私は、子どもたちには「通知表のことはあんまり気にしなくていいと思うよ」と伝えるし、学期終わりの学年便りには「通知表なんて紙切れには、子どもたちの魅力は閉じこめられません!」と書きます。
修了式には、1年間教室に溜めておいたその子の図画工作の作品や、国語のワークシート集、生活科の植物観察日記などを大袋にまとめて、通知表とともに渡します。
こうすれば、通知表よりも、大袋一杯のたくさんの作品の方に気を取られるから、結果的に通知表への興味が薄らぐのではないかと画策しているのです。
ちなみに、この大袋一杯の作品集は、別の意図もあって。
児童の各作品を、その都度家庭に返してしまうと、私のような大雑把なタイプの親は、適当にしまいこんで、家の中のあちこちに散逸してしまいます。けれど1年間の作品を最後に一つの袋でいっぺんに渡してもらえれば、小学校の思い出がまとめて保管できます。
これは保護者出身ならではのアイデア、と褒められました。
おススメです。
参考資料
林 真未(はやし まみ)
東京都内公立学校教諭
カナダライアソン大学認定ファミリーライフエデュケーター(家族支援職)
特定非営利活動法人手をつなご(子育て支援NPO)理事
家族(子育て)支援者と小学校教員をしています。両方の世界を知る身として、家族は学校を、学校は家族を、もっと理解しあえたらいい、と日々痛感しています。
著書『困ったらここへおいでよ。日常生活支援サポートハウスの奇跡』(東京シューレ出版)
『子どものやる気をどんどん引き出す!低学年担任のためのマジックフレーズ』(明治図書出版)
ブログ「家族支援と子育て支援」:https://flejapan.com/
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静岡市立中島小学校教諭・公認心理師
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