2005.06.07
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日本の教育の進路 ~教育改革はどこに向かうのか

日本の教育の進路

6月2日、有明の東京ファッションタウンビルで開催されたNew Education Expo in 東京での基調講演から、国立大学法人 兵庫教育大学学長であり、文部科学省中央教育審議会委員の梶田叡一氏のお話を紹介します。 <ゆとりか学力か>ではなく<ゆとりも学力も>という教育改革のあるべき姿について語っていただきました。


 日本の教育、なかでも学校教育が、いまどんどん動いているのを感じていらっしゃるかと思います。いろんな動きがあります。そこで2000年の教育改革国民会議、そして2001年からは中央教育審議会の委員を務める立場から、日本の教育の進路についてお話したいと思います。

 これでも30何年、私も教育のことを勉強してきたつもりなんですが、いま非常に大きな転換点にきているということなんですね。この転換点、マスコミは〈ゆとり教育か学力向上か〉などという対抗軸を出していますが、転換点というのはそういうことじゃないんです。ゆとりは必要不可欠です。そうでしょう? 先生が毎日何かに追っかけられるような気持ちで学校へいって、子どもと向き合うなんてそれじゃいけません。時間的にも仕事の中身としてもゆとりは大事です。

 子どもたちにはさらにゆとりがなきゃいけない。「この本読みたい!」と思ったときに、読める時間とゆとりがなきゃ身にもつかないと思うんです。しかし同時に学校は、安全で楽しくて、学力をつけるところでなければならない。力がつかなきゃ学校ではないんですね。90年代、ゆとり教育という上っ面だけのとんでもない非教育的なものが流行しました。「指導ではなく支援だ」とか、「子どもにがんばれと言うのは可哀相だ」とか、いろいろ言われました。しかし、あれは〈ゆとり〉の話じゃないですよ。教育を知らない単なる〈いい加減〉というんです。

 IEAの学力調査というのがありますが、30年前、私が国立教育研究所にいたころは日本の子どもはダントツ1位だった。それが90年代どんどん落ちてくるんですね。これで一番困るのは、日本の子どもの関心・意欲が着実に落ちてることなんです。そりゃそうですよ。がんばれといっちゃいけない、教え込んじゃいけない、ただ目がキラキラしてればいいなんてそんな上っ面なことを教師がしてたら、授業の1時間1時間の充実感なんてないでしょ? 「わかった!」って事実と充実感があってはじめて子どもの意欲・関心は深まるんです。

 そんなわけで〈ゆとりか学力か?〉というのは間違いです。ゆとりも学力も必要です。しかし、ゆとり教育の名のもとに行われた90年代の教育はナンセンス。いつまでもそのままでいるわけにはいきません。特に理数系の人たちは90年代後半から危機意識をもってやってきました。そんな90年代の流れをふまえて2000年に発足したのが教育改革国民会議です。

 これは「21世紀の教育をどうするか」をテーマに25名の委員が召集され、すべての話し合いが総理官邸で行われるという15年前の臨時教育審議会よりも政治的レベルの高い集まりでした。そして2000年12月、国民会議で17の提案がまとまりました。その後、2001年1月に科学技術庁と文部省がひとつになり文部科学省が発足。そこでスタートしたのが、先の教育改革国民会議を礎にした中央教育審議会です。委員は30名、一期は2年で、現在3期目に入っています。そこで話し合われているテーマには三本の柱があります。

 一つに、教育基本法の改正の問題です。現在の教育基本法というのは戦後、アメリカの占領下で作られたもので、日本が主権を回復して50年以上経つというのに当時の敗戦色の教育に縛られた状態で放置されてきました。教育基本法の理念は非常に素晴らしいと思います。ですが、社会のあり方が変化している現在、日本人である私たちには私たちの未来を作る新たな教育基本法が必要なのではないかと。改正=悪と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、放置されてきたその議論がいまや真剣になされるべきときにきているということです。

 二つ目は規制緩和の問題です。日本は明治以降の流れのなかで、国内どこでも一定の教育が受けられる、教育水準が保たれるというナショナルミニマムを大事にしてきました。そのため長年、中央集権的な教育制度を行ってきた。たしかに、水準維持というのはベースとして非常に大事なことです。ですが、それと同時にローカルオプティマ、地域、地域にあった教育もしていかなきゃいけない。そこで、国の権限を県に、県の権限を市に、市の権限を個別の学校や地域に渡す。できるだけ現場に近いところに自主・自立的な権限を保障していこうというのが、現在議論されている規制緩和の問題です。

 ローカルオプティマとナショナルミニマムのバランスをどうとるか、これは国民会議のころから中教審でもずっと議論されているのですが、すでに動きはじめている運用面での変化の一つが学習指導要領です。2000年まではそれが「標準」となっていたのが、2001年2月の第一期中教審の教育課程部会から指導要領は「最低基準」という原則に変わっています。これはどういうことかというと、指導要領以上であれば、先生はどんな風に指導してもかまわない。必要とあれば次の学年の先取り学習もOK。発展的学習を自由にやって下さい、ということなんです。意外とこの主旨が徹底されていないんですが(笑)、

 いまや法令的には指導要領に拘束制はなくなりました。その分、ここから先は先生方がどんどん面白い授業をやって下さい、いや、面白いことをやらなきゃいけないというのがいまの中教審の考え方です。

 最後に、三つめのテーマが、たしかな学力。2001~02年文科省の一部でまるでゆとりを排除するかのような極端な発言がありましたが、そういうことではないんです。たしかな学力とは、学力をつける、育ちを保障する教育にしようということです。子どもにとって学力とは何でしょう? 関心も大事です。知識、思考力、判断力、記憶力……技能も大事です。それらがリンクし合って総合的な学力になる力。それが、たしかな力です。教師は、子ども一人のなかで学んだことがひとつの力になるように指導していこうということなのです。そのためには何が大切か。90年代、授業研究というのは本当になくなってしまいました。でもそれではダメだということです。

 教師はもう一度、教材研究をやり授業研究をやり、自らも勉強法と指導の見直しをしなきゃいけない。本当に力をつけていく教育を再建すること、これが三本目の大きな柱なのです。ただし、教師は授業さえ考えていればいいわけではない。授業の背景の発展学習をどう組み立てていくか、日本の豊かな先人の知恵をどう伝えていくか、単なる授業論に終わらない広いパースペクティブをもった授業をもう一度、現場で復興させなきゃいけない。私はこれまで世界中さまざまな国の教師と出会う機会がありました。でもそのなかでも日本の教師は断然トップレベルです。見識を持った教師が、賢い授業をやって、よき日本人であり、よき人類の一員である21世紀の人材を育てる。そんな本当の教育を、それぞれの立場で作っていってほしいと願っております。

(取材・構成:寺田薫)














 

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