この一年間を振り返りながら、今期最後のテーマを考えていました。今年も、たくさんの人に励まされ、支えていただくことで、それが大きな力となり、今日の自分につながっていると感じます。このような経験があることで、自分自身の価値に気付き、自分と向き合っていけるのでしょう。
さて、これまでの指導を振り返りながら、自分はそういった実践が本当にできていたのか、思い付きや行き当たりばったりの実践はなかったかと反省するところです。
「子どもだから」と一括りにする怖さ
以前勤めていた学校で、生徒を実習に送り出すに当たり、実習激励会という授業がありました。自分の実習先と目標をパネルに明記し、皆に宣誓し、送り出してもらうという内容です。確かに、宣誓することや送り出してもらうことで気持ちを高め、実習でも成果をあげる生徒がいました。しかし、そういったことが苦手な生徒や負荷が大き過ぎて、ついていけない生徒がいることを理解していく必要があると感じます。
例えば、「大きな声であいさつをする」ということは、社会で生きていく上で本当に必要な目標なのか?もし、話すことが苦手な生徒だとすれば、それが本人の困難さであることを伝えつつ、得意なところで勝負できるような引き継ぎはできないのか?そんなことを考えます。
「子どもだからとこうあるべきだ」と画一的な捉え方をするのではなく、一人一人と丁寧に向き合っていくことが、結果として子どもたちの成長につながるのではないでしょうか。
「困った行動」ではなく、「困っている行動」と、相手に対する眼差しを変えていくことが、重要なポイントになるのだと思います。
やってみせて
自分を上手に表現することが苦手な生徒には、意図的・計画的に「断る力」や「援助を求める力」が身に付くような学習が必要だと考えています。しかし、その際にスキルとして「型」だけを教えたとしても、なかなか定着しないという経験があります。では、どうすれよいか?
一つは、先生がまず「やってみせる」という方法が効果だった事例があります。
怪我などの様々な事情で車いすを使用している方に対して、「立って走りなさい」ということはないでしょう。しかし、自分の実践を振り返ると、話すことが苦手な生徒に対して「頑張って話してみよう」とか、困った時に援助を求めることが苦手な生徒に対して「困った時には教えてね」といった指導が、恥ずかしながら自分でもあったように思います。
Aさんは、困ったことがあっても人に伝えられず、それでストレスがたまってしまうと嘘や悪い言葉を使ったり、物や人に八つ当たりをするということがありました。自分を傷つけることもあれば、学校を休むこともあります。
なんとか信頼関係を作ろうと私なりに話を聞こうとしましたが、もしかするとそれは教師側の一方的な思いでしかなく、本人には大きな負担になっていたのではないだろうかと考えます。
その子自身を理解しようとするのではなく、自分が対応しやすいような指導方針を決めていたのではないか?そんな大きな問いが今でもあります。
集団から外れ、「私は一人で平気…。」と寂しげな表情とその言葉の裏には、どんな思いが隠されていたのか。
もしかするとその子は、自分のあるがままを理解されたかったのではないか、「そのままでいいんだよ」、「全部受け止めるよ」と言って欲しかったのではないか。
そうやって、その子のニーズに寄り添い、本人が理解されたと感じた時に、信頼関係も生まれるのでしょう。
プリント問題を解いている時に「先生、手伝ってください」と言ってくれたことがありました。
その言葉が聞けたのは、Aさんを説得することや、スキルとして援助を求めることを授業で教えたことよりも、教師側がAさんに援助を求める場面を意図的に設定してきた影響が大きいと考えます。
給食の配ぜんやプリントを配る等、授業だけでなく、日常生活の時間も含め、本人の取組を当たり前の役割とするのではなく、「手伝ってくれるかな?」手助けを求めるモデルを見せるようにしました。その積み重ねが、「人に頼っていいんだ」、「それは恥ずかしいことではないんだ」と本人の気持ちに変化が出てきました。また、必要とされることで、自尊感情も緩やかではありますが保たれていたのでしょう。そして、「ありがとう」という言葉も出るようになってきました。
仮想的有能感の視点から
中部大学の速水先生(2014)は、仮想的有能感について、「勝手に他人を見下すことで生成された偽りの有能感、自信であり、十分によく知らない人たちをみて『駄目なやつらだ』と一方的に見下し、その分、自己評価を高めることにある。」と定義し、社会に対して「願望や期待があまりに強いために、本人自身が現実と混同している状態」として、歪められた自尊感情について論を述べています。
例えば、未成年者が喫煙することで周囲の友だちよりも優位な気持ちになったり、最近では、異物を混入するかのような動画をインターネットに公開することで注目を集めたりといったことがありますが、暴言や虚勢、あるいは恫喝するような行動も、実は本人の苦しさから生まれるものであり、その根底には「自分を認めてほしい」、「自分の痛みに気付いて欲しい」という心の叫びがあるのではないでしょうか。
このような苦しさに陥らないためには、その子の価値を見出し、褒めるだけでなく、勇気づけていくことも視野に入れていく必要があると思います。
これまでの投稿では、褒めることが大切だと述べてきました。しかし、褒め方を間違えると、褒められるための行動が増え、褒めることによって子どもをコントロールする関係性が出てくことには注意が必要です。また、褒めることで必ずしも自尊感情が高まる訳ではなく、褒め方によっては低下するという論もあります。
「100点を取って頑張ったね」ということは、「100点でない時は頑張っていない」ということですし、「学年で一番になってえらいね」ということは、「学年で二番ではいけない」という意味にもなります。こういった間違った褒め方が定着してしまうと、自己に対する本質的な価値に対する受け止め方が弱くなっていきます。
「勇気づけ」とは、「困難を乗り越える活力を相手に与えること」です。結果だけでなく、その過程や失敗も含めて、長所を認め、短所を受け止めていくことで、次の意欲を引き出すことが大切なのでしょう。
大人の欲求を満たす行動を褒めるのではなく、その子自身の頑張りを適切に評価し、本人へ返していくことが求められます。事故や怪我につながるような大きな失敗をさせないための配慮は必要ですが、先回りして失敗を無くすだけでなく、失敗をそのままで終わらせず、「必ず自分はできるんだ」という成功で終わることが、教師の役割だと考えます。
ありがとうと伝えること
人は、自分のフィルターを通して目の前の相手を理解していきます。自分の当たり前は、全ての当たり前ではなく、正論をぶつければ相手を裁くことになり、抵抗勢力になることもあります。これは子どもも大人も一緒でしょう。
子どもの行動には、必ず意味があるはずです。教師側から見れば望ましくない行動も、それがその子の発達にとっては必要なことであったり、何らかのサインであったりと、日常的な観察の重要性を実感してきました。
不登校についての事件が話題になっていますが、子どもは行動や身体表現を通して、周囲の大人にSOSを伝えいきます。「言葉で伝えられるもの」だけでなく、「言葉だからこそ、伝えられないもの」がある。
そんな苦しさが、「分かっているけど、やめられない」ということにつながっていくのではないでしょうか。
大人が思うほど、子どもは実感としてイメージできていないことがたくさんあります。経験がないことは、分かりません。
ですので、優しくしなさいと叱られるよりも、優しくされることが大切なのでしょう。そうやって認められ、理解され、受け入れられることで、自分らしく輝いていける。それは、言葉だけのやり取りではなく、日々の関わりを通じ、時間をもって体験されることではないでしょうか。
そして、自分が認められ、理解され、受け入れられたと感じた時に、自ら変化し、人生を切り開いていきます。以前、「東京都障害者スポーツ大会に参加して」で書かせていただいた事例が、正にそうでした。
人は経験から学びます。
だからこそ、「ありがとう」を言う練習をするのではなく、「ありがとう」と伝えていきたい。
相手の欠点や短所を探すことは簡単です。一方で、相手の良い所は意識していく必要が出てきます。
子どもたちの様々なサインに対して、一人一人の気持ちを受け止める。しかし、間違った行動には、毅然とした態度でNoを伝えていく。
もうすぐ長期派遣としての研修も終わろうとしています。いよいよ現場に戻る時がきました。これまでの立場から、一歩引いて俯瞰することで、自分自身の課題や至らなかった点も痛いほどによく分かりました。
関わり方の結果は、必ず双方の責任です。
相手を変えようとするより、まずは自分を振り返り、自分の関わり方を変えていきたいと思います。
一年間お付き合いいただき、ありがとうございました。
参考文献
速水敏彦(2014)、「特集 自信を育てる 若者の「自信」と仮想的有能感」、児童心理2014年1月号、pp.25-31

綿引 清勝(わたひき きよかつ)
東京都立南花畑特別支援学校 主任教諭・臨床発達心理士・自閉症スペクトラム支援士(standard)
東京都内の知的障害特別支援学校で中学部、高等部を経験後、現在は小学部の自閉症学級を担任。自身の実践を振り返りながら、子ども達が必要としている支援とは何かを考えていきたいと思います。
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