“日本の教育が世界に誇る2つの宝は、「読み書き計算」と「一斉授業」である”
これは、学力研の実践者として著名な久保齋氏の著書「一斉授業の復権」(子どもの未来社)の冒頭に記されています。
しかしながら、以前、ある研究会で「一斉授業」が崩壊の危機にあると聞きました。「ここ十数年は新しい学力観のもと,おおざっぱな授業が蔓延した。ほとんどの教師はそのことにすら気づいていない」という久保齋氏の主張は,大きな衝撃でした。一斉授業は,あまりにも身近で簡便な方法と思われがちな点から,形だけでその本質に目を向けていないことが大きな問題である。そこに気づいていない教師があまりにも多いというのです。十数年と言えばまさに、30代の自分が歩んできた年数です。この間おおざっぱな授業の中にどっぷりと浸かってきている、一斉授業と思っていたものが実はその本質について触れることも経験することもなく、表面的な部分のみで捉えてきているというのです。
教師の指導力低下が叫ばれていますが、一斉授業の本質を突き詰めて考えた経験がないということは、大きな要因の一つかも知れないと感じました。例えば、校内研修や一般的な公開研究会において、一斉授業=教え込み授業、グループ学習=学び合い、というような単純な授業観で語られる場面をよく見かけます。また、前任校の研究主任が授業反省会において、「一斉授業で同じようなことを考えたり,指導したりしているように見えても、その中の細やかさは全く違う。そこに多くの教師は気づいていない。」とよく嘆いていたこととも共鳴しました。
これまでの20年間を振り返ってみると、私が教師となった90年代前半は、当時の文部省を中心に、「つめこみ教育」の反省から「ゆとり教育」が叫ばれ、「新しい学力観」の提唱が大きな話題となっていました。一斉授業は、教え込みやつめこみ教育の象徴として考えられ、個性重視の尊重から指導でなく支援を、子どもの発想から進める授業へと舵がきられました。総合的な学習の時間(以下、総合学習)が脚光を浴びていました。ある意味、できないこともひとつの個性と捉えられていたような記憶もあります。そのような中、私が新採用で勤務した学校は、本格的なオープンスペースをもつ先進校として、総合学習の開発が盛んに行われていました。教員集団は大変な熱気を帯び、研究意欲旺盛で毎年、自主公開をしていました。その中でも、課題別、グループ別の小グループでの授業や、TT、複線化といった一斉授業ではない授業スタイルに重きをおいて授業研究をしていました。それでも駆け出しの私には大変、学びの多い魅力的な学校でした。
しかしながら、久保氏の言葉は、日々当たり前に取り組んでいた一斉授業そのものの見方や捉え方を振り返る大きな問題を投げかけられたような気がしました。一斉授業からいかに、子どもを中心とした授業への転換を図るのかといった発想を根本から見直すことになったからです。一斉授業の本質をはずしている?とはどういうことなのか自問自答するきっかけとなりました。
久保氏の著書から、一斉授業の意味と価値について一部を紹介します。
(1)一斉授業は,単なる便宜的な学習形態ではない。今,学校現場にはびこっている「学びのないドリル主義,教育のない訓練主義,子どもたちの実生活と無関係な基礎・基本」はまさに知識の詰め込み,訓練である。小学校の最も大切な機能である「子どもたちを人間にしていくためのプログラムの構築」をないがしろにしてはいけない。一斉授業の中でこそ,子どもたちは人を大切にすること,自分の意見をしっかりと述べ,自分と友達の相違点を知り,協力し合うという市民的道徳を学ぶべきである。
(2)一斉授業は,個と集団の双方が位置づけられることであり、学習は本来、個のものであるが,人類は類的存在であることから集団の中で多くを学ぶという視点。凛々しい個別化がなされ個として学ぶこと,集団で議論をするなどの豊かな交流を通して学ぶという,個と集団のバランスが大切である。教師が一人でしゃべる授業,あるいは発言は活発でも議論として噛み合っていない,自分だけの意見をそれぞれが述べる授業は,一斉授業の本質をはずしている。
以上、少し長くなりましたが引用させていただきました。
(1)も(2)も至極、当たり前のような気がします。しかしながら、日々当たり前にやっていると思い込んでいる一斉授業に対して、ここまで突き詰めて考えてはいなかったように思います。
旧来の一斉授業を否定し,共同学習を中心とした授業改革の必要性が唱えられてきたかと思うと、PISA調査や学力低下論争から新たに基礎基本の充実やPISA型読解力に象徴される思考力・判断力・表現力、学習意欲が法制化され、喫緊の課題として出てきています。大きな教育の波が行きつ戻りつしている現状で、また、目の前の知識を矮小化して基礎基本として教え込むような風潮も感じています。
今こそ、授業とは何か?一斉授業の本質とは?学び合いとは?という視点をしっかりと見直しながら、確かな教育実践を積み重ねていかなければいけないと思います。
<参考文献>
・久保 齋著「一斉授業の復権」(子どもの未来社)2005。
・塚本榮一著「授業改善を改善せよ」(ジャストシステム)2006。
・佐藤学著「学びから逃走する子どもたち」 岩波ブックレッ2000。
これは、学力研の実践者として著名な久保齋氏の著書「一斉授業の復権」(子どもの未来社)の冒頭に記されています。
しかしながら、以前、ある研究会で「一斉授業」が崩壊の危機にあると聞きました。「ここ十数年は新しい学力観のもと,おおざっぱな授業が蔓延した。ほとんどの教師はそのことにすら気づいていない」という久保齋氏の主張は,大きな衝撃でした。一斉授業は,あまりにも身近で簡便な方法と思われがちな点から,形だけでその本質に目を向けていないことが大きな問題である。そこに気づいていない教師があまりにも多いというのです。十数年と言えばまさに、30代の自分が歩んできた年数です。この間おおざっぱな授業の中にどっぷりと浸かってきている、一斉授業と思っていたものが実はその本質について触れることも経験することもなく、表面的な部分のみで捉えてきているというのです。
教師の指導力低下が叫ばれていますが、一斉授業の本質を突き詰めて考えた経験がないということは、大きな要因の一つかも知れないと感じました。例えば、校内研修や一般的な公開研究会において、一斉授業=教え込み授業、グループ学習=学び合い、というような単純な授業観で語られる場面をよく見かけます。また、前任校の研究主任が授業反省会において、「一斉授業で同じようなことを考えたり,指導したりしているように見えても、その中の細やかさは全く違う。そこに多くの教師は気づいていない。」とよく嘆いていたこととも共鳴しました。
これまでの20年間を振り返ってみると、私が教師となった90年代前半は、当時の文部省を中心に、「つめこみ教育」の反省から「ゆとり教育」が叫ばれ、「新しい学力観」の提唱が大きな話題となっていました。一斉授業は、教え込みやつめこみ教育の象徴として考えられ、個性重視の尊重から指導でなく支援を、子どもの発想から進める授業へと舵がきられました。総合的な学習の時間(以下、総合学習)が脚光を浴びていました。ある意味、できないこともひとつの個性と捉えられていたような記憶もあります。そのような中、私が新採用で勤務した学校は、本格的なオープンスペースをもつ先進校として、総合学習の開発が盛んに行われていました。教員集団は大変な熱気を帯び、研究意欲旺盛で毎年、自主公開をしていました。その中でも、課題別、グループ別の小グループでの授業や、TT、複線化といった一斉授業ではない授業スタイルに重きをおいて授業研究をしていました。それでも駆け出しの私には大変、学びの多い魅力的な学校でした。
しかしながら、久保氏の言葉は、日々当たり前に取り組んでいた一斉授業そのものの見方や捉え方を振り返る大きな問題を投げかけられたような気がしました。一斉授業からいかに、子どもを中心とした授業への転換を図るのかといった発想を根本から見直すことになったからです。一斉授業の本質をはずしている?とはどういうことなのか自問自答するきっかけとなりました。
久保氏の著書から、一斉授業の意味と価値について一部を紹介します。
(1)一斉授業は,単なる便宜的な学習形態ではない。今,学校現場にはびこっている「学びのないドリル主義,教育のない訓練主義,子どもたちの実生活と無関係な基礎・基本」はまさに知識の詰め込み,訓練である。小学校の最も大切な機能である「子どもたちを人間にしていくためのプログラムの構築」をないがしろにしてはいけない。一斉授業の中でこそ,子どもたちは人を大切にすること,自分の意見をしっかりと述べ,自分と友達の相違点を知り,協力し合うという市民的道徳を学ぶべきである。
(2)一斉授業は,個と集団の双方が位置づけられることであり、学習は本来、個のものであるが,人類は類的存在であることから集団の中で多くを学ぶという視点。凛々しい個別化がなされ個として学ぶこと,集団で議論をするなどの豊かな交流を通して学ぶという,個と集団のバランスが大切である。教師が一人でしゃべる授業,あるいは発言は活発でも議論として噛み合っていない,自分だけの意見をそれぞれが述べる授業は,一斉授業の本質をはずしている。
以上、少し長くなりましたが引用させていただきました。
(1)も(2)も至極、当たり前のような気がします。しかしながら、日々当たり前にやっていると思い込んでいる一斉授業に対して、ここまで突き詰めて考えてはいなかったように思います。
旧来の一斉授業を否定し,共同学習を中心とした授業改革の必要性が唱えられてきたかと思うと、PISA調査や学力低下論争から新たに基礎基本の充実やPISA型読解力に象徴される思考力・判断力・表現力、学習意欲が法制化され、喫緊の課題として出てきています。大きな教育の波が行きつ戻りつしている現状で、また、目の前の知識を矮小化して基礎基本として教え込むような風潮も感じています。
今こそ、授業とは何か?一斉授業の本質とは?学び合いとは?という視点をしっかりと見直しながら、確かな教育実践を積み重ねていかなければいけないと思います。
<参考文献>
・久保 齋著「一斉授業の復権」(子どもの未来社)2005。
・塚本榮一著「授業改善を改善せよ」(ジャストシステム)2006。
・佐藤学著「学びから逃走する子どもたち」 岩波ブックレッ2000。




高岡 昌司(たかおか しょうじ)
岡山県教育委員会津山教育事務所教職員課 主任
教育行政職3年目です。授業談義できる場を求めています。この場を借りて授業実践や学級経営についての意見交換ができたらいいなあと思っています。専門は社会科教育です。
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