「歩行」について、皆さん改まって考えたことってありますか。
「歩行」というのは、「歩行訓練」のことです。視覚に障害がある盲学校の児童・生徒は、様々な手がかりをもとにして、ある場所から目的の場所へ移動する訓練をしています。それが「歩行訓練」です。(参考http://www.nagasaki-sb.ed.jp/jikatu/hokou/hokou.htm)
目に不自由を感じない多くの方には、今更「歩行」がどうしたのだろうとお感じになるでしょう。
試しにアイマスクをして、または目をつむって、5分でも10分間でも、誰かに付き添ってもらいながら、近所を歩いてみてください。個人差があるでしょうが、私は校舎内を歩く研修を受けました。恐ろしくて、へっぴり腰になり、本当に歩けませんでした。目が見えない分、どうであったかというと、耳に神経が集中したことと、右左のバランスや、歩幅を意識しました。ほんの数十分のことでしたが、言いようのない疲れを感じたことを覚えています。目からの情報がないと、なんと不便で苦痛なことなのか知らされました。
目が不自由でなくても、車いす利用や杖など、歩くことに不都合を感じている方々も多くおられますね。「歩行」を特別視しなくてもとおっしゃるかも知れません。
でも、目が不自由な方にとっては、何にもまして大きな問題であると私は考えるようになりました。
「歩行」ができるか、そうでないかということは、視覚障害者にとっては、「自立した」生活が行えるか否かに通じることになるのです。
「歩行」に大きな役割を果たしているものが2つあると思います。その一つは点字ブロックの存在です。もう一つは白杖です。
私は、点字ブロックの意味と意義が、遅ればせながら、盲学校に赴任してからよーく分かるようになりました。
駅や歩道など身近に至る所目に付いているはずなのですが、その存在意義を考えたことは、情けないことに今まで全くありませんでした。無意識であったことの方が、実は自然なのかもしれません。点字ブロックなど、日頃からよーく見えているが、実は全然意識して見ていないものの一つだと反省させられました。
点字ブロックがあるか、ないかが目の不自由な方々にとっては大きな問題になっています。
先日、私は最寄りの駅から学校までの生徒が、「歩行」で登校することを見守って一緒にきました。
所どころ、点字ブロックが欠け、隆起物が摩耗しているところがあるのに気付きました。
順調に歩いていた生徒は、点字ブロックが不明瞭なところでは、戸惑っていました。
声にこそ出しませんでしたが、少しハラハラしながら見守っていました。
幸い、事故や不意のハプニングに遭遇せず、10分程度の歩行は無事成功しました。
聞いた話ですが、点字ブロックに物を置いたりすることは、利用される方にとっては御法度です。
悪気無く、点字ブロックの上でしゃがんで話したりする若者にも困ります。
点字ブロックは、それが必要を感じている方々が、何の無理も感じなく利用できるようにありたいものです。
また、点字ブロックの修繕にも思いやり予算ではありませんが、関係部署の方々には配慮を願いたいと思います。気付いたらどこかへ連絡できるシステムなどが構築されるべきだと思いました。
話は戻って、他の学校の生徒らと、一緒に電車から下車し、改札口を出るところまでも、そっと後ろから見ていました。
幸いなことに、別の高校生らは、白杖を持った生徒を気遣ってくれました。朝の混雑の時間帯であったにもかかわらず、押し合いもなく、少し空間を置いてくれました。
最近の高校生の言動について、非難めいたことを聞くことが多いですが、少なくともこの生徒らには当たらないと感じ、心が和まされました。
私は、この「歩行」のように、生徒本人が、まず一人で自立できるように頑張ることが大事だと気づきました。同時に周りの家族や学校が、見守ることも含めて支援することが必要だと分かりました。そしてもう一つ、彼が生活する地域や行動する範囲での、見知らぬ方々も含めた方々の理解と協力も大切になってくると感じました。これらに行政がリンクすることが理想なのかも知れません。
ノーマライゼイションという言葉があります。インクルージョンという表現もあります。どんな言い方をするにせよ、人ひとりが、社会で大切に「生かされる」には、どう関わったらよいのだろうかと私は今考えさせられています。
「歩行」って、思いの外難しいことなのだと、日々考えを改めさせられている昨今です。
実は、目が不自由でない人にとっても、一人で自立した生活がどうしたら遅れるかというのは、哲学的にも教育学的にも心理学的にも大きな問題を含んでいるのかも知れません。
当然私の家族一人ひとりにとっても、同様なことなのかもしれません。
「歩行」というのは、「歩行訓練」のことです。視覚に障害がある盲学校の児童・生徒は、様々な手がかりをもとにして、ある場所から目的の場所へ移動する訓練をしています。それが「歩行訓練」です。(参考http://www.nagasaki-sb.ed.jp/jikatu/hokou/hokou.htm)
目に不自由を感じない多くの方には、今更「歩行」がどうしたのだろうとお感じになるでしょう。
試しにアイマスクをして、または目をつむって、5分でも10分間でも、誰かに付き添ってもらいながら、近所を歩いてみてください。個人差があるでしょうが、私は校舎内を歩く研修を受けました。恐ろしくて、へっぴり腰になり、本当に歩けませんでした。目が見えない分、どうであったかというと、耳に神経が集中したことと、右左のバランスや、歩幅を意識しました。ほんの数十分のことでしたが、言いようのない疲れを感じたことを覚えています。目からの情報がないと、なんと不便で苦痛なことなのか知らされました。
目が不自由でなくても、車いす利用や杖など、歩くことに不都合を感じている方々も多くおられますね。「歩行」を特別視しなくてもとおっしゃるかも知れません。
でも、目が不自由な方にとっては、何にもまして大きな問題であると私は考えるようになりました。
「歩行」ができるか、そうでないかということは、視覚障害者にとっては、「自立した」生活が行えるか否かに通じることになるのです。
「歩行」に大きな役割を果たしているものが2つあると思います。その一つは点字ブロックの存在です。もう一つは白杖です。
私は、点字ブロックの意味と意義が、遅ればせながら、盲学校に赴任してからよーく分かるようになりました。
駅や歩道など身近に至る所目に付いているはずなのですが、その存在意義を考えたことは、情けないことに今まで全くありませんでした。無意識であったことの方が、実は自然なのかもしれません。点字ブロックなど、日頃からよーく見えているが、実は全然意識して見ていないものの一つだと反省させられました。
点字ブロックがあるか、ないかが目の不自由な方々にとっては大きな問題になっています。
先日、私は最寄りの駅から学校までの生徒が、「歩行」で登校することを見守って一緒にきました。
所どころ、点字ブロックが欠け、隆起物が摩耗しているところがあるのに気付きました。
順調に歩いていた生徒は、点字ブロックが不明瞭なところでは、戸惑っていました。
声にこそ出しませんでしたが、少しハラハラしながら見守っていました。
幸い、事故や不意のハプニングに遭遇せず、10分程度の歩行は無事成功しました。
聞いた話ですが、点字ブロックに物を置いたりすることは、利用される方にとっては御法度です。
悪気無く、点字ブロックの上でしゃがんで話したりする若者にも困ります。
点字ブロックは、それが必要を感じている方々が、何の無理も感じなく利用できるようにありたいものです。
また、点字ブロックの修繕にも思いやり予算ではありませんが、関係部署の方々には配慮を願いたいと思います。気付いたらどこかへ連絡できるシステムなどが構築されるべきだと思いました。
話は戻って、他の学校の生徒らと、一緒に電車から下車し、改札口を出るところまでも、そっと後ろから見ていました。
幸いなことに、別の高校生らは、白杖を持った生徒を気遣ってくれました。朝の混雑の時間帯であったにもかかわらず、押し合いもなく、少し空間を置いてくれました。
最近の高校生の言動について、非難めいたことを聞くことが多いですが、少なくともこの生徒らには当たらないと感じ、心が和まされました。
私は、この「歩行」のように、生徒本人が、まず一人で自立できるように頑張ることが大事だと気づきました。同時に周りの家族や学校が、見守ることも含めて支援することが必要だと分かりました。そしてもう一つ、彼が生活する地域や行動する範囲での、見知らぬ方々も含めた方々の理解と協力も大切になってくると感じました。これらに行政がリンクすることが理想なのかも知れません。
ノーマライゼイションという言葉があります。インクルージョンという表現もあります。どんな言い方をするにせよ、人ひとりが、社会で大切に「生かされる」には、どう関わったらよいのだろうかと私は今考えさせられています。
「歩行」って、思いの外難しいことなのだと、日々考えを改めさせられている昨今です。
実は、目が不自由でない人にとっても、一人で自立した生活がどうしたら遅れるかというのは、哲学的にも教育学的にも心理学的にも大きな問題を含んでいるのかも知れません。
当然私の家族一人ひとりにとっても、同様なことなのかもしれません。
岩本 昌明(いわもと まさあき)
富山県立富山視覚総合支援学校 教諭
視覚に病弱部門が併置された全国初の総合支援学校。北陸富山から四季折々にふれて、特別支援教育と英語教育を始め、身の回りに関わる雑感や思いを皆さんと共有できたらと願っています。
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