先日、一番下の小3になる娘を連れて、県内のスキー場へ行きました。後の2人は、もう父親とは行動を取りたくない年齢になってしまったようです。寂しい現実ですが、ぐすん。
娘にとっては、今年初のスキーになりました。昨年以来1年間のブランクが娘にはあるからと私は色々と考えました。
それで、娘にスキー板の履き方、斜面をこつこつ登るスキー板と足の運び方等を順序だったステップを踏んで私は本当に丁寧に教えようとした。しかし、そんなことより、娘は早く雪面をスーッと滑りたくてうずうずしています。本人はボーゲルである程度滑ることができると自信をもっているのである。
私の言うことには上の空で、すぐ斜面を滑っていってしまいました。案の定、ものの数mも進まぬうちに、ドテッと尻餅を着いてしまう次第だったのです。しかし、転んでからがひと騒動である。
なかなか自分の力で立ち上がることができない、それどころか、スキー板さえ自分で外すことがままならない。M脚状態で足首がスキー板に固定されて、非常に足首や太股が痛い目にあってしまった。本来なら「おおよしよし」とすぐ立ち上がれるように抱えることでもすればいいのだろう。が、私は、ここでつい鬼指導教官になってしまった。
自分の力で立ち上がれなくては、スキーが滑ることができても駄目だと思いこんでしまったのだ。本人は、変な体型のためひどく痛がっているが、自分でスキー板を外すことを試みさせた。たとえスキー板が外せなくても、自分でストックを支えとして使いながら立ち上がることができるようにしたかった。しかし、娘の独り立ちを狙った私の思惑は全く通じなかった。
ちょっとは滑って転び、上のような親子のやりとりが2・3回も続いたと考えてみて下さい。
ほんの1時間もすると、娘は泣きべそをかいて、「もうイヤだ。ソリをしたい。」と訴えてきたのだ。私が今度は慌てた。一日分のスキー一式のレンタル料金を払ったものだから。何とか娘の機嫌を戻そうにも、娘はスキーに嫌気を示してしまったのだ。私にとっては、良い意味か悪い意味か分からないが、高い授業料を払わされたことになってしまった。
家に戻ってから振り返ってみた。
娘は、スキーで滑りたかった。しかし、私は本人の〈自立〉を願って、本当に初歩的・基本的なことから教え指導を重ねた。でも娘は滑ることが一番の目標であった。転んで立ち上がることも、自分でスキー板を履いたり、脱いだりは確かにスキーをする上で大事なことかもしれない。だが、娘はそんなことは希望していなかったのだ。ましてや、痛みや苦痛を伴った訓練は、娘にはとんでもないものだったのだ。痛みを伴った時点で、スキーというものに嫌気が差してきたのである。当然、我慢していたが父親に対しても嫌気がさしてきたのではないかと反省している。親の愛情があれば、ここで、本人の「やる気」を持続させることができたのに。そうしなかったのだ。
失敗してしまった。とにかく雪原を、スキーで滑る体験をさせることを優先すべきだったのだ。
この状況を、英語指導に置き換えてみることができるのではないだろうか。
私の目の前に座っている生徒らの大半は、「ALTを始め、外国人の方と英語で会話ができたらいいな」と単純に願っている。しかし、現実の授業の中では、辞書指導をしたり、本読みをしたり等の訓練の部分に比重が傾いてきている。このようなことが出来ないと英語学習が成り立たないと私が固定観念でいるのかもしれない。
「本人が自分で英語を理解し学ぶことができるように」、そのために困らないようにと老婆心ながら私たち英語教師は本当に色々な様々な取り組みを行ってきている。しかし、生徒の実態や希望にあわせるとするならば、辞書を引かせたりする活動も確かに大切ではあるのだが、もっと授業の中で「話をさせる場(コミュニケーションの授受)」を創出することが大事であるのではないかと、改めて振り返ってみた。
細かいことに時間と労力をかけすぎて(これらも大事なのだが)、生徒らの「やる気」を殺(そ)いでいるのであれば、私の本意ではない。生徒にとって、何か苦痛を伴う課題を強いているのであれば、別の方策を考えなくていけない。横道(つまり英語嫌いかな)に逸れてしまう危険性が、本校の生徒には非常に起こりえる(もちろん他の校種では、苦痛を伴わせた方が良い場合もある)。
上の娘へのスキー指導でも、転んだら、手を貸して抱き上げて起こしてやるくらいの余裕が親として大切だったのかもしれない。斜面を上がるときも、私が、手を引いてやれば済むことであった。自分で上がらせることに固執すべきでなかった。これらのことを通して、一番大事なのは、娘が「今日はスキーをして楽しかったです。」と学校の連絡帳か日記帳に記入できるかどうかということである。「痛い思いをして、もう今後絶対にスキーはしたくありません」という記述や想い出にすることではないと思うのです。皆さんどう思いますか。
私って、やはりまだまだ未熟な指導者兼「親ばか」なのでしょうか。
参考文献
藤根淳一『語研だより225号』(財団法人語学研究所)
娘にとっては、今年初のスキーになりました。昨年以来1年間のブランクが娘にはあるからと私は色々と考えました。
それで、娘にスキー板の履き方、斜面をこつこつ登るスキー板と足の運び方等を順序だったステップを踏んで私は本当に丁寧に教えようとした。しかし、そんなことより、娘は早く雪面をスーッと滑りたくてうずうずしています。本人はボーゲルである程度滑ることができると自信をもっているのである。
私の言うことには上の空で、すぐ斜面を滑っていってしまいました。案の定、ものの数mも進まぬうちに、ドテッと尻餅を着いてしまう次第だったのです。しかし、転んでからがひと騒動である。
なかなか自分の力で立ち上がることができない、それどころか、スキー板さえ自分で外すことがままならない。M脚状態で足首がスキー板に固定されて、非常に足首や太股が痛い目にあってしまった。本来なら「おおよしよし」とすぐ立ち上がれるように抱えることでもすればいいのだろう。が、私は、ここでつい鬼指導教官になってしまった。
自分の力で立ち上がれなくては、スキーが滑ることができても駄目だと思いこんでしまったのだ。本人は、変な体型のためひどく痛がっているが、自分でスキー板を外すことを試みさせた。たとえスキー板が外せなくても、自分でストックを支えとして使いながら立ち上がることができるようにしたかった。しかし、娘の独り立ちを狙った私の思惑は全く通じなかった。
ちょっとは滑って転び、上のような親子のやりとりが2・3回も続いたと考えてみて下さい。
ほんの1時間もすると、娘は泣きべそをかいて、「もうイヤだ。ソリをしたい。」と訴えてきたのだ。私が今度は慌てた。一日分のスキー一式のレンタル料金を払ったものだから。何とか娘の機嫌を戻そうにも、娘はスキーに嫌気を示してしまったのだ。私にとっては、良い意味か悪い意味か分からないが、高い授業料を払わされたことになってしまった。
家に戻ってから振り返ってみた。
娘は、スキーで滑りたかった。しかし、私は本人の〈自立〉を願って、本当に初歩的・基本的なことから教え指導を重ねた。でも娘は滑ることが一番の目標であった。転んで立ち上がることも、自分でスキー板を履いたり、脱いだりは確かにスキーをする上で大事なことかもしれない。だが、娘はそんなことは希望していなかったのだ。ましてや、痛みや苦痛を伴った訓練は、娘にはとんでもないものだったのだ。痛みを伴った時点で、スキーというものに嫌気が差してきたのである。当然、我慢していたが父親に対しても嫌気がさしてきたのではないかと反省している。親の愛情があれば、ここで、本人の「やる気」を持続させることができたのに。そうしなかったのだ。
失敗してしまった。とにかく雪原を、スキーで滑る体験をさせることを優先すべきだったのだ。
この状況を、英語指導に置き換えてみることができるのではないだろうか。
私の目の前に座っている生徒らの大半は、「ALTを始め、外国人の方と英語で会話ができたらいいな」と単純に願っている。しかし、現実の授業の中では、辞書指導をしたり、本読みをしたり等の訓練の部分に比重が傾いてきている。このようなことが出来ないと英語学習が成り立たないと私が固定観念でいるのかもしれない。
「本人が自分で英語を理解し学ぶことができるように」、そのために困らないようにと老婆心ながら私たち英語教師は本当に色々な様々な取り組みを行ってきている。しかし、生徒の実態や希望にあわせるとするならば、辞書を引かせたりする活動も確かに大切ではあるのだが、もっと授業の中で「話をさせる場(コミュニケーションの授受)」を創出することが大事であるのではないかと、改めて振り返ってみた。
細かいことに時間と労力をかけすぎて(これらも大事なのだが)、生徒らの「やる気」を殺(そ)いでいるのであれば、私の本意ではない。生徒にとって、何か苦痛を伴う課題を強いているのであれば、別の方策を考えなくていけない。横道(つまり英語嫌いかな)に逸れてしまう危険性が、本校の生徒には非常に起こりえる(もちろん他の校種では、苦痛を伴わせた方が良い場合もある)。
上の娘へのスキー指導でも、転んだら、手を貸して抱き上げて起こしてやるくらいの余裕が親として大切だったのかもしれない。斜面を上がるときも、私が、手を引いてやれば済むことであった。自分で上がらせることに固執すべきでなかった。これらのことを通して、一番大事なのは、娘が「今日はスキーをして楽しかったです。」と学校の連絡帳か日記帳に記入できるかどうかということである。「痛い思いをして、もう今後絶対にスキーはしたくありません」という記述や想い出にすることではないと思うのです。皆さんどう思いますか。
私って、やはりまだまだ未熟な指導者兼「親ばか」なのでしょうか。
参考文献
藤根淳一『語研だより225号』(財団法人語学研究所)
岩本 昌明(いわもと まさあき)
富山県立富山視覚総合支援学校 教諭
視覚に病弱部門が併置された全国初の総合支援学校。北陸富山から四季折々にふれて、特別支援教育と英語教育を始め、身の回りに関わる雑感や思いを皆さんと共有できたらと願っています。
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