2008.01.11
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つれづれなるままに(ア・ラ・カルテ)

富山県立富山視覚総合支援学校 教諭 岩本 昌明

1幕「指名」について
私の高校時代は「受験地獄」「四当五落」という言葉があった(今もあるのだろうか)。色に例えるならば灰色の3年間であった。学校の授業の進度に遅れないように予習することで精一杯の日々であった。ある時、数学の授業で当てられて、答えたことをなぜか忘れないで覚えている。もう30年以上も前の出来事である。私にとっては、灰色でない想い出の一つとなっている。

たわいもない内容で、当時数学のK先生が「点や線や面って何か」を、クラス全体に問いかけられた。私は、数学が好きであった(得意という意味ではない)。多分、是非とも当ててほしいような顔つきをして、私はK先生をじっと見ていたのだろう。その瞬間をK先生は逃(のが)さず、私を指名しただけだったのかもしれない。私は、「点は位置を指し示すが、大きさ・面積・長さをもたないもの。線とは太さを持たない幾何学的な対象である曲線の一種で、どこまでもまっすぐ無限に伸びて端点を持たないもの。(参考Wikipedia)」程度のことを答えたようだ。

答えた内容はすっかり忘れてしまったが、この場面が未だに私の心の中では、言い表し得ない充実感・成就感として30年以上も記憶というか思い出として残っている。私は答えられる自信があった。私は指名されたかった。しかし、手を挙げる勇気までは持っていなかった。目で合図をしていたのかもしれない。K先生は、その時、他の生徒にない何かを私に気付いてくれたのではないかと思っている。真実は全くの偶然で、たまたま指名しただけだったのかもしれない。今となっては本当の理由は分からなくても構わない。私にとっては、自分の思い通り「指名された」出来事が、雷に打たれたような一期一会または邂逅のようなものになった。これが一つの契機となり、数学の教師を一時は目指した。が、人生はそう自分の思い通りにいかないものだ。

私は、自分が味わったような体験を、生徒らにも味わってもらえたらと願っている。だから、生徒らの表情をしっかり見て、「指名」するように心がけている。生徒一人ひとりにとって、たとえ簡単そうな質問であっても、彼ら・彼女らにとっては「上手く答えられた」という小さな成功体験になるようにしている。私は今、意識して「指名」しているが、当のK先生は、たかだか「指名」が、一生徒のその後の人生に少なからぬ影響を与えるとは、全く予期しなかったことかも知れない。ましてやこの原稿の材料になるとは夢想だにしなかっただろう。今から思えば、K先生は、この「指名」というシーンによって、私に数学の勉強の「やる気」を起こしてくれたようです。今もK先生には本当に感謝しています。

さて、皆さんの中にも、小中高の間で、「指名」に限らず、「授業(学校生活)での成功体験」をお持ちの方が多くいるのではないでしょうか。『私の人生に影響を与えた、学校のほのぼの体験―40代、50代、60代等』というような体験集を募ることで、心温まる教師とのエピソードが集まるのではないでしょうか。こうすることで「学校」を別の側面から捉え直すことができるような気もします。

2幕「影響を与えた一言」について
Y先生が定年で退職されたのを祝って、恩師を囲んで会を催した。その中で高校時代に薫陶を得たPさんが、「私はY先生に、教科書のレッスンを覚えるにはどうしたらいいですか」と尋ねたら、「500回読みなさい」と言われたそうである。しかし、500回読んでもそのレッスンが覚えることができなかった。そこで改めて同様の質問をした。すると「1500回声に出して読みなさい」と言われたそうです。このPさんは、家に帰ってから、食事の間も、風呂に入っても、徹夜をして、1500回本当に読んで学校へ行ったそうです。そのために遅刻をして、Y先生の授業に出たようです。当のY先生はそんなPさんとのやりとりやPさんの遅刻のことなどは全く覚えていません。それにしても1500回本当に実行したPさんこそは凄い。Pさんは今英語の教師になっています。「500回や1500回の音読」という何気ない一言を忠実に実行する生徒もいるということに、言葉の恐ろしさと怖さも知らされました。

3幕「ルー英語で日本語とのコラボレーション」について
「ルー大柴」が使っている日英混交の言葉を「ルー英語」とでも称してみます。「石の上にもスリー イヤーズ」「百聞はワン ルックにしかず」。これらは英語と日本語のコラボレーションである。日本の諺を英語と関連させる機会と考えている。比較的初歩的な英単語を絡めて、日本語と混合させていきたい。日本語がしっかりしていることが前提である。生徒は無意識のうちに、日本語を確実にし、その上で英語の語彙増強を楽しむことになるのである。まあゲーム感覚である。こうすることで、「やる気」が出てくれることをわずかでも期待したい。この後のステップは、会話など文中で英語をどう取り込むかである。気長に自分が楽しむことを兼ねて今学期試みてみようと思う。「ルー英会話ブック」でも編集してみようかと考えている。あくまでプロジェクトである。成果や結果を期待したいとは思わない。「英語」は「英語で」教えることに、あくまでこだわることもある。でも肩の力を半分ほど抜いて、日本語を用いながら英語学習が少しでも前進するだけでも、善しとすべきかもしれない。

4幕「不適格教師」と「教師の文化」について
なぜ政府や文部科学省は、「不適格教師」の排除に力を注ぐのであろうかと、疑問に思っていた。自分が過ごしてきた職場には、判官贔屓もあって「不適格」な方はいなかったと思っていた。しかし、これはわたし自身が節穴の目をしていたからかもしれない。ここ2ヶ月の間に、上のような考え方を変えてきた。私は、生徒やその保護者の立場で考えてみることを、深くしてこなかったことを今回は反省している。登校拒否やいじめの被害者やその他学校が原因の一部と考えられることで、困っている人が全国に何十万人もいることを。その原因が必ずしも全て教師にあるとは言えないだろうが、一部の原因を担わなくてもよいのだろうか。その生徒や保護者の方々にしてみると、教師や学校に対する意識は、「我が子が陥った原因を作った、きっかけになった不適格な教師は排除してもらいたい。私たちのような被害者が拡大することをくい止めてもらいたい」等ではなかろうか。こう憤っているが、自分がいつ何時、「不適格教員」という範疇に分類されることになるかもしれない恐れも拭いきれない。正直ブラックユーモアかもしれない。

概念的でわかりにくいので、具体例を挙げてみたい。たとえば「いじめ」を考えてみたいと思います。
いじめにしても、人間関係がうまく築けないことが原因となる場合が多い。人間関係が上手でないのは、その生徒の生育歴やら家庭環境やら、その他色々な要因が複雑に絡み合って起きている場合が多いのは事実だろう。しかし、その兆候をクラスの中で担任は、気付いていたはずであろう。その兆候を見逃したのであれば、その担任はある意味で責められる。もし、担任なり教科担当者が、兆候に気付いていたのであれば、何らかの対策を講じるように指導をすべきであろう。指導の術がうまくいかなければ、先輩・同僚の教師集団に相談し、解決に向けて努力が求められるべきでないだろうか。上司に当たる教員も、若い経験の浅い教師を、助言・指導し、相談にのり、教師としての成長を支援していくことも期待されるのではないだろうか。
子どもたちの、好ましい成長をずたずたにした教職員に、漫然と給与が支給され続けるということは、社会保険庁の二の舞に陥ってしまう危険性を孕んでいると言っても過言ではなかろう。語気がつよくなるが、「消えた年金を返せ」をもじるならば、「私の子供の青春や学校時代を返せ、戻ってこない失われた時間を返せ」と言いたくもなるだろう。全国のいたるところで、私のように声に出せない児童・生徒の皆さんが多くいると思います。その後ろには、本当に悲痛で無念な思いでいらっしゃる保護者の方々のためにも、真剣に考える問題であると感じている。

一部の学校や教職員の不適切な対応や指導に翻弄されて、いじめや登校拒否や心身疾患になり医療機関のお世話になっている児童生徒もいる。少なくとも、学校生活が何らかの原因の一つとなっている。その学校生活を児童生徒らがスムーズに送ることができるように、教職員の言動が注目を浴びている。それも今まで以上に世間から鋭い視線を向けられている。私たち教師は、指導する教科の専門性だけでなく、心理学や認知面でも児童生徒のメンタルな面への支援やクラスマネジメント・リスクマネジメントなど、教育に関わる周辺領域についても深い正しい最新の知識が求められている時代に突入したと思っている。そのために、時代の急激な変化に対応できる、しっかりとした研修を積むことのできるよう行政が対応されることを切にお願いしたい。当然財政面での支援が、物事の解決に一番効果の上がることを、強く文部科学省や財務省の方々に理解もお願いしたいのである。そのためには、国会議員の先生方にも理解をしていただかないと手順としてはいけないのであろうか。

私は、単純に「不適格な」教師を排除すれば全てが解決できるとは考えていない。
教師が一人前の教師に近づくような「場」が必要であると考えている。
教師の中には(私も含めて)、残念ながら、何が生徒にとって、保護者に対して不適切なことなのかすら気付いていない者もいると思う。情けないことだが、従来からある好ましい教師集団を分断するような施策により、教師はお互いに助け合い、お互いに教えあい、お互いが学び合う「人間らしい」環境を失おうとしている。言葉を換えれば「教職員の文化」「職員室(職場)の文化」とも称するものが着実に瓦解している。古い話だが、冬ともなれば、ミカンの皮をむき、餅を焼き、ストーブの周りに放課後や休憩時間に誰彼と集まって、生徒のことや授業のことなど、何ともなく雑談をし、それを通して悩みや問題への糸口が見つかり、教師本人の不安やストレスのガス抜きになっていた、これを「ストーブ談義」などと称してもいいのかもしれない。教職員(職員室)の古き良き文化が失われていないだろうか。
一つの例として、休憩時間と休息時間との勤務時間の服務規程が杓子定規的に利用されることで、教職員はそのグレーゾーンを奪われてきたように見える。また、教職員の良き文化を見直し、それを継承・発展させる努力も必要であると考えている。文化と言えば、夏目漱石や石川啄木や宮沢賢治らに限らず、教師はその地域の「文化人」でもあり、文化の発信者である役割を果たしてきた面もある。昨今は、「地域」に何を貢献できるのかに血眼になりすぎている傾向が見える。「文化の香り」を復活することも大事なのではないだろうか。

1幕から4幕まで、とりとめもなく書きしたためました。皆さんにとって、今年が昨年以上に善い劇を演じられる年となりますように。

岩本 昌明(いわもと まさあき)

富山県立富山視覚総合支援学校 教諭
視覚に病弱部門が併置された全国初の総合支援学校。北陸富山から四季折々にふれて、特別支援教育と英語教育を始め、身の回りに関わる雑感や思いを皆さんと共有できたらと願っています。

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