2007.08.24
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そこに山があるから

富山県立富山視覚総合支援学校 教諭 岩本 昌明

大学生の時、教員養成の学部に所属していたが、同級生の中には教師になることに躊躇(ためら)いを感じていた人がいた。彼らと夜中に下宿で様々な事柄で話し込んでいた中で、なぜか次の場面を私はよく思い出す。

「岩本、おまえはなぜ先生になりたいのか?」
「生徒の持っている白いキャンパスに、一緒に絵を描きたいから」
または、
「生徒の何も描かれていない画布に、自分(教師)の力で色を付けることができるから」

なんと、顔から火の出るような、そして歯の浮くような会話なのだろうか。若気の至りとはいえ恥ずかしい。

さて、このシーンが、次のように考えを修正することになった。
1.生徒の持っている白いキャンパス(画布)って何か。
それは、生徒一人ひとりが、持っている純白または純粋無垢な純真さ・可能性・能力等。しかし現実に目にする生徒らのキャンパスには、白色どころか様々な色が塗りたくられていたり、もうすでにこってりと油絵が描かれていたり、キャンパス自体にも穴が空いていたりすることを理解し気付くのに年月はかからなかった。現実に「白い」状態の生徒はいなかった。

2.一緒に絵を描きたい。
このことは、実は私の「思い上がり」以外のなにものでもない。とお叱りを受けた。私ごときの個人の力で、生徒の描こうとしている絵を、変えようとするとは、または変えることができると思うのは、なんと独りよがりな考えを持っていたのかと反省させられた。自分ひとりで何でも変えることができると考えていた節があったのかもしれない。実際は、生徒には家族もいる、私以外の多くの先生方もいる。学校だけでなく、家庭や地域や友人なども、その生徒と関わることができる。人以外にも、その生徒と一緒に絵を描くことができるものがあるのだ。本当に狭い見方をしていた。確かに世の中には、○○先生の影響で変わった。とか△△先生のご指導で現在の自分があります。という場合がテレビやマスコミなどで取り上げられることがあります。でも、これは珍しいから、滅多にないことだから取り上げられ注目されるので、ほとんど影響力はあっても個々人の「気づき」や「努力」で成し遂げたところが大なのではないでしょうか。それを教師がとか俺のお陰でというのは烏滸(おこ)がましいのではないでしょうか。

さて、私は埼玉県での県立高校での教師経験を皮切りに、地元の富山へ戻ってから比較的広範囲に生徒らと触れ合う機会に恵まれた方だと思っている。
最初の3年間、中学では1年から3年までの全ての学年での英語指導に携わることができた。私が、3年連続して3年生の担任を希望した。「私が教師として育ち成長するためには、是非とも1年生を担任して、指導するべきだ。」と、教務主任の先生が諭してくださった。あの時に1年を経験できなかったら、英語教師としては中途半端なままであったかもしれない。当時の教務主任の先生には非常に感謝している。中学校という校種を3年間ではあったが経験できたことは、貴重であったとずっと思っている。

次は女子高校に異動した。着任式の時、体育館に1000名近くが全て女子生徒だったのには、覚悟してはいたものの圧巻であり戸惑った。普通科以外に、看護科や家政科が併設されていた高校であった。特に看護に携わる生徒らの、献身的にも人間的な暖かみに接する機会があり、「将来病気入院したら、この生徒の看護を受けても構わないなあ」と思わされた。残念なことに現在まで、彼女らにお世話になる機会はない。近い将来、介護施設でお目にかかることになるかもしれないが、そのときは、私の記憶が定かかどうか心配である。家政科の女子生徒からは、服飾や調理の面の知識技能の習得に加えて、女性としての振る舞いや細やかさの教育を受けており、授業中にそれとなく触れる機会があった。

次の異動先には、普通科の中に音楽コースが併設されていた。管弦楽団の顧問としてタクトを振る機会があった。音楽コースの生徒から、指揮のイロハも知らない私に、初心者に教えるように、指揮法を教えてくれた。演奏会でも、拙い指揮を当てにせず、無事演奏をしてくれたのには感謝している。朝早くから学校が閉まるまで、ピアノ教室は、音楽コースの生徒らが順番待ちで、本当に音楽漬けの生活を送っていた。卒業生の中に県内で声楽家として、また国外へ留学して音楽家として活躍している者が多く、彼らの成長ぶりが、なぜか自分にとっても幸せに感じている。

次に通信制のある定時制に移った。全日制から定時制への異動だけでも、全くの新天地という感覚であった。さらに「通信制」という制度に、読者諸氏もどのくらい理解されることであろうか。正直、通信制のシステムに、私自身が慣れるのに6ヶ月ほどかかったのを記憶している。ここでは、本当に雑多な環境や境遇の生徒らに出会えてコペルニクス的転換が私に求められたと感じた。それまで普通科では、当たり前に思っていた受験指導または受験テクニック的な英語指導からの脱却を余儀なくさせられたのである。また均一な生徒らを指導するのではなく、非常に多様で幅の広い学力の生徒が一クラスの中にいる現実に、どう対処していくか頭を悩まし、逆に自分の勉強にも大いになったと思っている。

次に体育コースが普通科に併設している学校へ異動する機会があった。県下有数のサッカー部や陸上やカヌーやフェンシングなどで活躍している生徒等が教室にいた。国体やインターハイ出場を当然の目標としている生徒らが集っていた。体育的活動では生徒らはきびきびしたスポーツマンシップを本当に発揮してはいた。ただ、授業中は、非常に厳しい朝練や前日の部活動の疲れからか、つい睡魔との格闘になることが多く、授業者泣かせの部分と背中合わせであった。でも元気で爽やかな生徒らに囲まれた良かった。

最初の埼玉県の高等学校と最後に紹介した体育コースのある学校だけは、2年在職した。他は全て3年間の勤務であった。そして現在に至るのである。
(注:この十数年の間に、生徒数減少に関係して、男女共学化、学校改名、学科・コースの改変や学級減などが行われており、生徒の実態は、上述したものと現在は同じではないことをお断りしておきます。)

今、改めて問い直したい。
「岩本、おまえは、なぜ先生を続けているのか」
「生徒等から色々なキャンパスを見せてもらい、その上、自分の画布に一筆ずつ描き加えてもらうことが幸せに感じるから」

おっと、また気障(きざ)な独白になってしまったようだ。
現在の勤務校では、毎年新しい発見や出会いや気づきがある。昨年までの生徒に出来たことが、今年の生徒に通用するとは言えない事が多くなっている。一人ひとりの生徒に大変手がかかるようになってきた(一言では言い尽くせない)。だから悩みが尽きない。でも教育活動自体は本当に楽しいのである(ちょっと無理しているかな?)。

なぜ山に登るのかと尋ねられて、「そこに山があるから」と答えたとか答えなかったと言われ、名言に残っている。では、上の問いに答えてみるとするならば。

もじって「そこに生徒がいるから」かな? 

ウッ、なんと淡泊な終わりになってしまったことか。
「ザンネン」(ギター侍)

岩本 昌明(いわもと まさあき)

富山県立富山視覚総合支援学校 教諭
視覚に病弱部門が併置された全国初の総合支援学校。北陸富山から四季折々にふれて、特別支援教育と英語教育を始め、身の回りに関わる雑感や思いを皆さんと共有できたらと願っています。

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