みなさん、こんにちは。
今回は京都府宇治市に位置する、黄檗宗(禅宗の一派)の総本山万福寺を訪れたときの体験から、考えたことを短く述べてみます。
1.黒澤明の「羅生門」のような雨
1950年の日本映画、黒澤明監督の映画『羅生門』は、ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞した、文字どおり戦後日本の復興の象徴のような映画作品でした。豪雨を表現するために、黒澤さんは墨汁を混ぜた雨を降らせたといわれています。
2014年の11月に、近くの高校でキャリア教育の先進的授業発表があり、もったいなくもその発表者自身の先生のご案内で、念願だった万福寺の三門(さんもん)を訪れることがでたのです。そうしたら、たまたま三門が特別公開中で、普段は上がれない楼閣を見学することができました。
まさしく雨が蕭々と降りしきる中、黒澤映画の中に入ったような・・・。平安京の羅城門は、さぞかしこのような門だったろうと思わせる、立派な門です。
三門とは、仏教的にいえば、空解脱門・無相解脱門・無願解脱門の3つの解脱門を表し、人が三つの境地を経て仏国土に至るさまを表しているのだといいます。
「一切の姿かたちは空(空解脱門)であり、比べるべきものなど何も無く(無相解脱門)、何も無いものに望むことなど出来ない(無作解脱門)ということを、瞑想することにより体得し、仏国土に至る」さまを、建築で表現したともいえます。
さて、楼閣ではボランティアの若い女性が、説明版を手に解説をしてくれました。
前述の三解脱門、すなわち物事にとらわれぬことが解脱、すなわち苦しみから解放される、という一般的な説明のほかに、異説として次のようなことも聞きました。
仏教では貪(どん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒が煩悩として苦しみを作り出す、と考えます。
貪とはさまざまなものを必要以上に求める心。
瞋とは自分の気にくわないことがあれば必ず怒る心。
癡とは真理に対する無知、すなわちあらゆるものへの理に暗いこと。
だそうです。
三門をくぐり境内に入ることは、この三毒を解脱することなのだ、と。
私は、はっとしました。
これこそキャリア教育そのものなのではないか!と。
2.人生における数々の「門」
「高望み」という言葉とはちょっと違うけれども、自らの適性を考えず、必要以上に高資格・高収入の職業を狙う、いや、それしか見えない人がいる。貪(どん)。
自分が思ったように進学や就職ができない場合、安易に周囲や社会のせいにしてみたり、アドバイスを素直に聞き入れなかったり、怒りが先に出る。瞋(しん)。
社会の現在地や社会からの期待値を考えず、周りから学ぼうとせずに、状況を無視したまま突進するタイプ。癡(ち)。
それらを捨て去り、真に開かれた自己を発見するよう導き出すのが、教育や学校あるいは入学試験などの門(関門)の役割なのではないか。
そういえば、長男が生まれる直前、病院の看護師さんから、「赤ちゃんはお母さんのお腹から頭を出したら、自分の力で向きをかえて、肩がひっかからないようにして生まれ出てくる」と聞いて、驚かされたことがありました。ということは、自分もそうして生まれてきたはずです。
人は誕生という名の「門」を自分の力でくぐり生まれ出で、さまざまな試練の「門」を自分の力で通過したのち、やがて終焉の「門」をくぐって人生を終えるのではないのか。
省みて自分自身も、確かにさまざまな門をくぐって今日にたどりついています。
雨傘を片手に、天に屹立する門を見上げながら、人生とは何かについて思いめぐらせた万福寺でした。
(ここまでお読みいただき、ありがとうございました。)

前川 修一(まえかわ しゅういち)
明光学園中・高等学校 進路指導部長
インタラクティブな学びの場がどうしたら実現できるか、有効かを、日本史・中学公民のAL授業や進路指導を通じ考えています。平成28年度日本私学教育研究所委託研究員。
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