2015.09.25
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充実した学校生活とは

東京都立白鷺特別支援学校 中学部 教諭・自閉症スペクトラム支援士・早稲田大学大学院 教育学研究科 修士課程2年 吉田 博子

 今回は今期の最終投稿ということで、私自身の話についても触れておこうと思います。私は幼少期から変わった子どもでした。父の仕事の都合で一歳半から海外に住み、言葉のよくわからない幼稚園に通っていました。言葉や社会性が最も発達するであろう時期にそのような環境に身を置くことは、未経験・未学習の一要素となり、その後の生活に影響があったようにも思います。帰国して一年ほど日本の幼稚園に通いましたが、途中編入だったので馴染めてなかったように思います。小学校に入学し三年生くらいから上級生の辛辣ないじめを受けました。しかし学校では適切に対応してもらえず、いじめはエスカレートしていきました。高学年になると、とにかく「いい中学校に入りたい」と受験勉強に明け暮れました。いい成績をとることで周囲から認められようと努力しました。晴れて中高一貫の私立の寮制の女子校に通うことになりました。しかし、せっかく合格した学校だったのに、校風が合わずその半分以上が不登校でした。中学校に入学して以降は、それ以上に頑張り続けることができなくなってしまいました。音楽大学では個性が認められる環境にあったので、自分が悪目立ちすることもなくそれなりに楽しく通っていましたが、どこか友達の輪に入っていけないような心細さがあったように思います。帰国子女や受験戦争、集団適応など、それ自体に打ち勝てる子どもは多くいるので、振り返れば私自身のレジリエンス(耐性)は強くないのだと思います。さらに不登校の期間が長かったため、学習機会における経験値や他者への関わりといった点で、同世代の一般的な子どもよりも圧倒的に発達を促される機会が少なかったことと思っています。

 

歩み寄り

 学校の先生の多くは、「自身の学校生活が楽しかったから」「尊敬する恩師との出逢いがあったから」「子どもに関わることが好きだから」「子どもたちに学ぶ楽しさを伝えたいから」などといった、比較的ポジティブな動悸で採用試験を受けた方がほとんどではないでしょうか。勉強や部活など何か一つのことに打ち込んで頑張っていたり、行事活動を友達と協力して創ったり、そういった「青春の一頁」を多くの先生方が括っていて、充実した学校生活を経験したことと思います。一方で、私のようにお世辞にも「充実していた」とは言えないような学校生活を過ごしてきたという人種の先生に、これまでお目にかかれたことは一度もありません。そもそも学校が嫌いだった子どもが将来教員になる確率は低いと思います。現状で感じているのは、「器用にできてしまう人にとって、不器用な人の行動や心理を理解することは容易なことではない」ということです。実際にポジティブな動悸で先生になった人の多くは、その生き方において「器用」な方が多いように思います。これは器用な先生方とそうでない人の隔たりを強調しようとするものではなく、不器用な人間から器用な人にはない「何か」を感じ取り、歩み寄ってほしいと願うのです。

 

不器用な生き方の子どもの心に共感するということ

 特別支援学校で働いて今年で10年目となりますが、これまで主に自閉症スペクトラム障害、強度行動障害、発達障害、統合失調症、触法少年、場面緘黙症、不登校など、社会適応に対する不安やストレス、困難を抱えるような特性の強い生徒に関わる機会が多くありました。中でも多くの生徒は二次障害を抱えるケースでした。私自身の学生時代の苦労経験は、集団に適応することの難しい子どもの心に寄り添って支援する上で強みになった部分はあったように思います。しかし、そうはいっても一人一人の子どものニーズは異なるので、必ずしも同じ方法を実施することが適切な支援に結びつくわけではありません。支援の在り方も十人十色で、文献で参考になる程度の資料があったとしても、100%確立したといえる方法論などはなくて、未だに出逢った子どもたちから学ぶことばかりです。

 まだ私の教員経験が浅かった頃、生徒のパニックを受けて骨折したり流血したりすることがたびたびありました。周囲の先生がその生徒を叱責し、力ずくで私から離そうとしました。思い出すと心が痛みます。私自身の指導技術のなさから子どもがそういった目に遭ってしまったのですから。この場合の「離す」ということは、一見にして常識的判断かのようにも思われるかもしれません。しかし、生徒の取った行動は間違っていたかもしれませんが、生徒の気持ちはその時の精一杯の方法で私に意思を伝えようとしていたことに違いありません。本当はその時に適切な伝達方法を教えなければならなかったのです。その後のフォローや生徒の自信回復に繋がるケア的支援のプランなしに、その場しのぎの対応しかできなかった当時の自分の無力さにもどかしさを感じ、もっと勉強しないとダメだと思わされたのでした。

 叱責されたことによって生徒が落ち着くわけはなく、行動のこだわりや執着もますます強化していったように思います。一つ言えることは、教師が怒鳴って生徒の行動が治まるなら、それほど楽なことはありません。パニックになる背景に何があるのかをよく観察することが大事です。意思がうまく伝わらなかったり、表出した要求を受けとめてもらえなかったりするなど、必ず何らかの原因があるように思います。しかも、コミュニケーションがうまくいかない発達上・障害上の問題があったり、本人の経験値の乏しさがあったりする場合には、どうやって行動することが社会的に許容されることなのか、周囲から望まれる適正行動とはどんなものなのかということについても、支援なしに理解に至ることは難しいと思います。

 問題となる行動について、その理由や背景がどうであろうと、「間違った行動は間違えているということを教え、厳しく指導して正さなければならない」とお考えになる先生もいるのかもしれません。でも、好き好んで行動的な問題を起こす子どもなどいません。うまくできないことにとても苦しんでいるのです。パニックになることでしか自分の気持ちを伝えられないつらさは計り知れないと思います。それを指導で抑え込むことが効果的な指導・支援とは言えないと考えます。だからといって、問題となる行動を容認するばかりでなく、時には叱ることも必要な場合はあることでしょう。その叱り方こそ、工夫や配慮が必要です。生徒に応じてどう伝えることが理解に至りやすいのか、効果的なのかを、“教師自身が考えて伝える”ことが肝心だと思います。私見ですが、「反省文」や「お説教」といった古典的な指導方法が効果的だとは全く思いません。威圧的な指導をして、形だけ反省させたようでいても、本人の理解に至っていないことは往々にしてあるからです。私自身もかつてはよく反省文を書かされ、落ち葉掃きという「罰」をさせられたものですが、「今回はバレてしまって残念だった(次は見つからないように悪さをするぞ)」程度にしか思っていませんでした。反省の想いなど全くないのに、その場を切り抜けるために「ごめんなさい」を言わせるような指導は、このご時世において、もう時代錯誤だと思います。「何がダメだったか」を伝えるだけでなく、「次からどうしたらよいのか」をその子どもができそうなことから具体的に示すこと、そして、「それがなぜあなたにとって必要なのか、それをすることでどんなメリットがあるのか」をわかりやすく示すことが大切だと考えます。それらをうまく伝えるためには、当然私たち教師の学びを欠かすことはできません。本来なら、誰しもがパニックを起こすまでのつらい経験を望んでいないし、穏やかな状況下に身を置き、愛情をいっぱい受けて満たされながら生活したいものなのです。

 

「障害」と「個性」

 障害について様々な捉え方がありますが、「障害は個性」という言い方についても賛否両論あるでしょう。例えば、発達障害は脳の機能的な障害とされていますが、それを「脳の個性」と捉えることもできなくはありません。私たち人間の背格好や体系、顔、手や足の形、髪質、それに表情や性格などが一人として同じものがないように、脳が人それぞれ違うという捉え方をすると、それを「個性」という言葉に置き換えることも可能なのではないかとも思います。「健常者」と呼ばれている人が圧倒的多数の人種で、「障害者」と言われている人が少数派と捉えることもできると思います。そうすると、もしその圧倒的多数が逆転した場合、医療的診断基準もそれに影響されるのでしょうか。「障害」というものは実際に存在する具体的な「モノ」ではなく、あくまでも人が決めた「価値基準」です。もしその「障害」という概念が「個性」というものに替わることがあるとすれば、きっと障害者に対する偏見や差別も減るのではないかと思います。そういった社会になるには、まだまだ時間もエネルギーも要すると思います。ですが、障害があろうとなかろうと、「人として個性を認め合い、支え合って、補い合って生きていこう」といった、より良い社会に近づけるためには、やはり児童・生徒と関わりを多くもてる私たち教師が発信をしていくべきだと考えます。児童・生徒への直接的な教育活動だけでなく、学校環境作りや児童・生徒との関わりの中で学んだ内容を発信する啓発的な役割も、私たち教師は担う必要があるのではないかと思っています。

 一方で、その障害によって生きづらさを抱え、本当に苦しまれている方にとって、安易に「障害は個性」という言葉を使うことは軽率な行為に値すると思います。少なくとも私自身の暗黒の学校生活を振り返ると、「発達障害」という言葉が現在ほど認識されていない時代でしたが、「個性が強い」という言葉を褒め言葉としては捉えられず、即ち「集団に適応できていない」と言われているような気がしていました。同じ意味でも「個性が強い」と言われるより「変わっている」と言われた方がまだ気楽に聞けていたような気もします。では「適応能力」とはどうしたら身につくのでしょうか。普通の人が特に努力しなくてもできていることを、適応するためにスキルで対応する力をつけようとすることは、指導者側が思っている以上に難しく当事者に負担を強いることだと思います。ソーシャルスキルトレーニング(SST)という言葉がありますが、それ自体を否定するつもりはありませんが、社会性に困難がある人に対して不得意な部分である社会性を伸ばそうという考えよりは、むしろ当事者に関わる支援者がSSTについて学び、理解するべきだと考えます。

 当事者にとっては「うまく適応をするために」自分の自然なふるまいから起こる行動を必死の努力で調整や抑制しなければならないのです。それはどこかぎこちなさが生じるし、常に失敗しないように考えながら行動することなので、相当に疲れることです。また、努力している人の多くは失敗した直後、周囲の人や環境に原因を置きたくなるものです。しかし、周囲の人たちはみんなできているのに自分の失敗だけが多いことに気づくと、「どうして自分だけがうまくいかないのだろう」と自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。本当は自分にも周囲に関わりたい気持ちがあるにも関わらず、対人面等での失敗を恐れて自らの判断で周囲から距離を置こうとすることもあるでしょう。しかしそんな時、誰かの言葉かけや励まし、支えがあれば、救われる想いがするのではないでしょうか。教師としてそういった支援者でありたいです。

 「認知を認知する」という意味で、『メタ認知』という言葉があります。教育現場でも『メタ認知活動』という言葉はよく耳にするようになってきましたが、これは自分の認知活動を客観的に捉えて制御することでもあります。適応能力を上げるためにメタ認知をあげるという方法もあるでしょう。様々な検査ツールはありますが、認知特性の平均と個体との値の差がわかったところで、不得意な分野を補うにはどのような方策を立てればよいでしょうか。アセスメントをして実態把握し、どのような支援をするか目標を立てることがとても大切です。確実に言えることは、放置をしていて改善できるということはないということです。そこには絶対に「教育」や「支援」が必要なのです。

 私自身の学校生活において、それを教えてくれる人はいませんでした。そこで「うまくできている人の真似をしよう」とか「同じ失敗を繰り返さないようにしたい」とかそれなりに考えをもっていた時期もあったのですが、なかなか同じようにはうまくいきませんでした。当時の私なら教師からどういう言葉をかけてほしかったかと思い出しながら、いま生徒と接するように努めています。生徒に指導をする前に、まず生徒の気持ちをよく聞くようにしています。「行動は間違っていても、気持ちは本人独自のもので間違っていない」からです。気持ちを聞き取りながら認知の歪みを探り、それぞれの子どもの認知特性を踏まえて、どうアプローチすることが有効なのか考え、支援目標を立てるようにしています。

 本当の意味での行動の改善を図るためには、本人が「そうありたい」と自覚しない限りは単なる受身なお説教でしかなく、右から左でしょう。行動を自分の問題として自覚し、真摯に向き合い、自己と対峙し、自分を知ることで初めて解決の糸口が見えるのだと思います。器用に生きている人からしてみれば、なんて面倒くさい工程なのだろうと思われるかもしれません。しかし、自己の問題を他罰的にしているままでは、メタ認知どころか適応能力があがることも難しいと考えます。

 これまでも繰り返しお伝えしたことになりますが、学校という場は「学力向上」のためだけの場ではありません。そして、教育というものは「課題解決」という結果だけを求めるものでもありません。最も大切なことはその「過程」であり、そこで行われる「対話」だと考えます。意図的なやり取りの「質」と「機会」の保障こそがとても大切なのだと思います。人それぞれ考え方は異なるかもしれませんが、「充実した学校生活」というのはどんなものかと問われれば、「人との関わりが充実しているかどうか」ということが大きな割合を占めるのではないでしょうか。教育が学習活動を通してその関わりの実現への一助を担えれば良いと思うのです。

 そして、児童・生徒の変化だけを期待するのではなく、周囲の理解や歩み寄りについても教えて育てていきたいところです。誰かの失敗を笑ったりバカにしたり距離をとったりするのではなく、自発的な「助け合い」や「協調」の環境を作っていくのも大切なことだと考えます。「Aさんはこの部分は苦手かもしれないけれど、ここは素敵なところだね」などといった長所が、「個の輝き」として認められるような働きかけがあると良いと思います。人は誰しも「孤独」を望んでいるわけではなく、むしろ「うまく適応したい」と思っているでしょう。しかし、問題が放置されて大きくなればなるほど、ケアも難しくなります。特段専門的なアプローチではなくても、児童・生徒の行動を日頃からよく観察し、何か気づいたことや気になることがあれば、「どうしたの?」「だいじょうぶ?」そんな単純な言葉かけでもいいのかもしれません。誰かが自分を気にかけていてくれる、支えになってくれる、受け入れていてくれる、という一見当たり前のことを、必要としている子どもが実は少なくないのだと考えています。

 個から集団へ向かう力、集団から個へ向かう力、その両方のベクトルを相互にうまく向けられると、「協調」のための相乗効果が上がるのだと考えられます。「障害があるからこれはできない」とわざわざ強調する必要はなく、「障害があってもこういう協力があればうまくいくかもしれない」、そういった視点を周囲に伝えると、周囲が自然に支えられる状況を作っていけるのではないかと思います。「個」が集まっての「集団」です。「集団」に焦点を当てれば、相対数のマニュアル的な支援になってしまいますが、「今こういった状況にあり、そのためにどういう支援が必要か」を考えながら目標を立てていくと良いのではないでしょうか。「個」に焦点を当てるだけではなく、集団と個の相互作用により、より良い支援を実現していくことが必要なのではないかと思います。そしてさらには「個」の中でも「個の良さ」を見つけ、それを活かした教育や支援をしていけると、児童・生徒にとって、学校生活がより豊かで楽しく、充実したものになるのではないかと考えます。

最後に

半年にわたり、こちらに投稿をさせていただきました。今年度後半は仕事と学業に専念したいと考え、一度筆を置こうと思います。自分としては、学習指導、進路指導、生活指導、福祉連携、教員間連携などについて、お伝えしきれなかったことや課題に考えていることも多く、またチャンスをいただければぜひ挑戦したいと考えています。書くことによって自身の考えを整理できたり、改めて気づかされたりすることも多く、私自身にとって大きな学びとなりました。このような発信の機会をいただけたことに、心から感謝しております。短い間ではありましたが、拙い記事にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。また、これまで応援してくださった方々にも心から感謝しております。

吉田 博子(よしだ ひろこ)

東京都立白鷺特別支援学校 中学部 教諭・自閉症スペクトラム支援士・早稲田大学大学院 教育学研究科 修士課程2年
知的障害特別支援学校の中学部で自閉症学級を担当しています。子ともたちのニーズに寄り添う支援について、実践紹介を交えながら皆様と共有させていただければ幸いです。

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