連絡帳のエピソード
先日、実家の大掃除をしていると、6歳年の離れたダウン症の弟が小学校二年生の頃の連絡帳がひょっこりでてきました。特別支援学校や特別支援学級では、保護者と担任間で連絡帳のやり取りをします。学校や学級によって書式の違いはありますが、概ねその日の出来事、健康状態、持ち物など相互に知らせたいことについて記します。母が連絡帳に記録していたエピソードに思わず笑ってしまいました。抜粋して紹介させていただきます。
「お昼前の空腹でイライラしていたのか、偶然が重なったのか、まず机の上に重ねておいたお姉ちゃんの教科書やノートを全部床に落とし、それを拾っている間にテーブルに置いた飲みかけのコーヒーをカーペットにこぼし、それを拭いている間にザルにあげておいたうどんを取ろうとしてザルをひっくり返してうどんを全部流しに空けてしまいました。全部が一分以内に行われました。手をピンと叩いて怒ると、みるみる涙があふれてきて『うえ~ん』と泣き声をあげました。でもお姉ちゃんが入ってきて『どうしたの?』と聞かれると、一段と声を張り上げテーブルにつっぷして泣いて、普段はバカにしているお姉ちゃんのヒザに乗り首にしがみついて泣いて、慰めてもらいました。」
「家で私がお姉ちゃんの勉強を少し見ている時、急にいなくなったと思うと、まもなくすっ裸で片手にズボンをも持って部屋に入ってきました。おもらししたのかと思いましたが、ズボンは少しも濡れていなくて、手足が少し濡れていたので、トイレの方に行ってみるとTシャツや下着を全部洗濯機に入れ、シャワーを出してありました。シャワーを浴びようとしたけれども、自分で温度調節ができず、水ばかりで冷たいので慌てて戻ってきたようです。」
「お姉ちゃんを御徒町まで送り、公園でブランコをしました。本人は自分で漕いでいるつもりらしく足を曲げるのですが、前に出てきたときは足を曲げ、後退するときは伸ばすので、あまりうまくできていませんでした。」
今改めて読むと家族をほっこりさせるエピソードではありますが、その時はその時なりの母の子育てに対する悩みや葛藤もあったのだと思います。連絡帳に書いて、その当時の担任に家庭で起きた出来事を共有してもらうことで、わが子のことを知ってもらいたかったり、不安を解消したりしたことも少なからずあったのではないかと思います。弟も現在では30歳を越しました。20数年前の時代に、母が弟を叩いて叱ったということは大目に見るとして、“普段はバカにしているお姉ちゃん”との表記はいかがなものかと思いますが、小さい頃は本当に弟をよくかわいがっていたことを思い出しました。同時に、この連絡帳のエピソードで、記録の大切さについても改めて気づかされました。こうして読み返して、「あの頃はこんなことがあったね」、「今はこんなに成長したんだね」と思えることのありがたさ、そして、それに真剣に応えてくださった当時の先生方のメッセージにもとても心温まる思いがしました。
現在、私自身も学校で起きた出来事や児童・生徒の様子は可能な限り連絡帳に詳細に書いて保護者の方にお伝えすることを大切にしています。が、児童・生徒を視界に入れつつ指導の片手間で連絡帳を書かざるを得ないような状況であることも多く、気づけば誤字・脱字があったり、時には文章の途中から別の話題になっていたりなどと、保護者の方々には常々申し訳ない思いでおります。
信頼される教師とは
さて、児童・生徒や保護者の方が教師を信頼する時とは、どういう場面なのかと考えます。いい授業ができることでしょうか、専門性が高いことでしょうか、熱心に関わってくれることでしょうか。信頼関係が強いことに越したことはありませんが、人と人との付き合いの中で100%相手を信じきるということは、なかなか難しいことだと思います。教師も人間ですから、失敗することもあれば、成長過程で考え方が変化していくこともあります。児童・生徒に対して行き届いた教育実践を目指すにあたって、教師が弛まぬ努力をすることはもちろん大切。しかし、教師という存在が「レジェンド」だとか「崇拝されるべき存在」である必要はなく、むしろそうあることの危険性を感じることがあります。ここで私が言いたいのは、「教師ができないこと(やらないこと)に対する開き直り」を擁護しているのではなく、教師自身に「自分は完璧な存在ではないのだ」という自覚が必要だということなのです。完璧でないから、努力を重ねて改善していかなければならないのです。教育には「ここまでやればよし」というゴールや正解などはなくて、常にどうすることがより良いのか、葛藤と試みと改善の繰り返しです。児童・生徒と共に歩む過程の中で、成長を共に喜んだり、困難に直面すれば共に道を切り拓いていったりするような、そんな「伴走」こそが、まさに私たち教師の役目なのではないかと考えます。かくいう私も、経験の浅いうちはとにかく自分の不甲斐なさがもどかしくて、ひたすら研究に勤しみ知識を得ようとした時期がありました。それは無駄なことだったとは思いませんが、振り返れば、おこがましくも生徒や保護者の方に「こうしたほうがいい」とあれこれ助言もどきを諭していたようなこともありました。しかし、今にして思うのは、それがもし上から目線で接しているのであれば、「伴走をする」と言うにはほど遠いのだということです。上辺だけの知識や実践というものは、結果としてその児童・生徒の人生においてしてさほど役立っていないように思います。「信頼されたい」と思うことは、即ち「自分をよく見せたい」ということでもあり、主体が教師側にありますが、教師が本気で児童・生徒を想い、余すところなく真摯に児童・生徒と向き合った結果として信頼を得られたのであれば、それこそ教師冥利に尽きるのではないかと思います。信頼とは、教師の専門性だとか実績だとかいうことではなく、実は児童・生徒の幸せをどれだけ真剣に願って関わってきたか、そんなささやかで、抽象的で、曖昧なことから培われるものなのかもしれないと、今は思うのです。
教師の役割
どんな親でも、自分の子どもを「良い先生に担任してもらいたい」と思うのは当然のことです。私自身にも中学生になる子どもがおりますが、授業参観に行くたび、例え同業者として学校の諸事情を理解できたとしても、情としてはわが子に「より良い環境で学んでほしい、良い先生に教えてほしい」と願うものです。教師に対して保護者が期待を寄せるのは当然のことであり、また教師という立場はその期待に応えるべく、実践もさることながら、分別や人格が問われる職種なのだとも思います。一方で、教師だからといって四六時中非の打ちどころのない完璧な人格を保てるなどということはないと思うところもあります。準備万端で挑んだつもりの授業でもうまくいかないこともあれば、自分が伝えようとしたことがうまく伝わらないことなども多々あって、そこからまた必死で次の手立てを考え講じる、こんなことの繰り返しです。さらに教師は、児童・生徒への教育的実践だけでなく、保護者対応や膨大な量の雑務処理なども相まって、昨今教師のメンタルヘルスが問われる時代になったのも理解できなくはありません。かつて、私自身も困難性の高いケースを担当した際、「この生徒を自分がなんとかしてあげたい」「自分にしかこの生徒を支えることはできない」とまで錯覚して、一人で抱え込み過ぎた経験がありました。そんな折、自身の限界を感じ、医療や地域福祉との連携を試みたところ、個人レベルでは解決し得なかった制度や福祉サービスの活用という道が拓けて、結果としてよりそのケースのニーズに沿った支援の実現に至ったように思います。生徒や保護者の方から自分が頼られていると感じれば、教師はもちろん嬉しい気持ちになり、教師としての自尊心も保つことができ、それを励みにさらに努力できることもあるでしょう。しかし、本当に「良い教師像」というものは、マンパワーの力量で教育実践に挑むのではなく、学校組織の一員として、いかに周囲と協調しながら対応にあたれる能力をもち合せているかということなのではないかとも思うようになりました。
信頼を保つ適切な距離感
教師として、生徒や保護者の方の期待に応えたいとは当然のことです。しかし、それを実現するうえで、教師としての立場や役割を踏まえ、常識的な距離感を保つということも、一方で重要なのではないかと思います。「常識的な距離感」というものをどこで線引きをするかは非常に難しいところではありますが、私たち教師の役割はあくまで「子どもを教育すること」であり、その目的から一脱するような場合は、教師が一人で抱え込むのではなく、学校組織内や地域福祉や医療との連携を考慮することも当然のことながら必要だと考えます。学校という場所は、期間が限定される支援機関でもあります。また在学中であっても、次年度も担任できる保障もなければ、教師は異動する可能性もあります。「支える」ということは、即ち「教師個人に依存させる」ことではなく、自分が担当を離れた後にも「子どもが安定した環境に身を置ける」ということを視野に入れて、引き継ぎをしていくべきでしょう。すると、「支える」とか「寄り添う」とかいったことの本質を見誤らないようにしなければなりません。その場しのぎに全ての要望を叶えることが、ニーズに向き合うことなのか、次に繋がる支援なのかというと、それは必ずしもそうでないように思います。保護者の方の子育てにおけるこれまでのご苦労や悩みを十分に理解や配慮をしつつも、今後はどのような展開をもって支援の質をより良く改善していけるのか、そしてそれは結果として児童・生徒を支えていく上でも重要なポイントになってくるでしょう。教師は児童・生徒の教育者であって、保護者のメンターにはなり得ません。必要に応じて、相談できる専門機関を増やすことが大切だと考えます。教育において主語にあるべきは、常に「児童・生徒」なのです。保護者の方のニーズを受け止めつつも、児童・生徒が家庭の中で、また社会の中で、安心して生き生きと過ごし、誰からも愛されて生活できるように、道筋を作っていくのが教師の役目だと考えます。
専門性のジレンマ
信頼に足る教師であるために、専門性を高めていくことはとても大切なことです。私たち教師は、児童・生徒の認知の理解、発達の理解、障害理解、教科指導、生活指導、進路指導、保護者や専門家との連携など、多岐にわたって専門性が問われています。児童・生徒が何につまずいているのか、どのような手立てがあればその課題の達成や克服に至るのかを十分考慮し、指導や支援に当たるべきです。そのためには、指導内容や指導方法の工夫のみならず、アセスメントの活用や個別のケースに応じた支援の考慮も必要です。しかし一方で、教師が知識ばかりを増やして理論家になってしまうと、今度は自分の知っている範囲の情報の中でしか児童・生徒を見られなくなり、実際にうまく支援できなかったことに対して、「自分はこんなにやっているのに周りの人間の理解が至らない」「自分がやるべきだと思っていることがあってもそれができる環境にない」と、他罰的になってしまうこともあり得るでしょう。すると、児童・生徒の困り感と実際の支援とが噛み合わない状態となり、結局のところしわ寄せの行先は、児童・生徒になってしまうという悪循環が生じます。思うに、少し余白があると良いのです。ハンドルでいう遊びでしょうか。自分の知っている情報や枠組みの中に児童・生徒を当てはめようとするのではなく、自然体で暖かく穏やかに子どもと向き合うという余裕をもった発想も時には必要だと思うのです。この数十年の教育史の中で、教育の質はどれだけ変動してきたことでしょうか。特に特別支援教育においては、飛躍的な進歩があったように思います。個人的な考えを言えば、一人の教師が実践した教育効果を本当の意味で検証するのであれば、卒業後5年後10年後をも追跡調査をしなければならないのだと思いますが、実際には追跡調査どころか、教育動向は益々変化に富んでいき、きっと今後も新たな手法が次々と注目を浴びていくのでしょう。例を挙げるなら、「自閉症教育」一つとっても、構造化や応用行動分析や感覚統合など、様々な分野の手法が有効な支援の手立てとして取り上げられ学校教育においても実践されてきました。その一つ一つは、実証された支援効果があり、多くの当事者を救ってきたことに間違いありません。私自身も実践において大きく影響を受けてきました。しかし一方で、教員が見様見真似でそれらをやってみたとしても、それは型でしかなく、本質的な教育効果を検証される間もなく、対症療法的に取り扱われているのが現状ではないかということを指摘せざるを得ません。児童・生徒が安心して豊かな生活をしていく上で、在学中に身に付けるべき必要な支援の手がかりとしてそれらが活用される分にはとても良いことだと思います。しかし、それを知っている支援者だけができて、そうでない支援者はできないことや、それが一時的にしか実践されない、また引き継がれないといった現状は、結果として子どもにとっても家庭にとっても負担であり、その支援は果たして意味があったのかと疑問に思うのです。もちろん教員間や進路先へなどの引き継ぎも必要でしょう。ただ、本来は最も身近に子どもを理解する保護者の方への支援の引き継ぎこそが一番大切なのだと思います。本当の信頼関係とは、相互が自立した関係の中で育まれていくように思います。現状の自分と相手との関係が良好かということだけではなく、自分が離れた後のことも考えて、児童・生徒や保護者の方の幸せな生活への道筋を作り、それを自分も相手も実感できたかどうかということが大切なのではないでしょうか。実践を振り返って客観的に判断した時に、教師の独りよがりや自己満足や押しつけであってはならないのです。その担任がいなくなったら児童・生徒が総崩れとなる支援では意味はありません。私自身もいろいろなことをやってきて、紆余曲折を経て、たくさんの失敗を経験して、教師10年目を迎えた今思うのは、教育の手法もさることながら、「児童・生徒の成長を信じて見守る」ということの大切さです。「テクニック」だけでなく、「心」に立ち返る必要があるのだと、考えています。そして、人の心を動かすのも、信頼を得るのも、やはりテクニックではなく心なのだと思うのです。
吉田 博子(よしだ ひろこ)
東京都立白鷺特別支援学校 中学部 教諭・自閉症スペクトラム支援士・早稲田大学大学院 教育学研究科 修士課程2年
知的障害特別支援学校の中学部で自閉症学級を担当しています。子ともたちのニーズに寄り添う支援について、実践紹介を交えながら皆様と共有させていただければ幸いです。
同じテーマの執筆者
-
東京都立南花畑特別支援学校 主任教諭・臨床発達心理士・自閉症スペクトラム支援士(standard)
-
富山県立富山視覚総合支援学校 教諭
-
北海道札幌養護学校 教諭
-
東京学芸大学教職大学院 准教授
-
東京都立城北特別支援学校 教諭・臨床発達心理士
-
福島県立あぶくま養護学校 教諭
-
東京都立港特別支援学校 教諭
-
京都教育大学附属特別支援学校 特別支援教育士・臨床発達心理士・特別支援ICT研究会
-
福生市立福生第七小学校 ことばの教室 主任教諭 博士(教育学)公認心理師 臨床発達心理士
-
信州大学教育学部附属特別支援学校 教諭
-
在沖米軍基地内 公立アメリカンスクール 日本語日本文化教師
-
静岡市立中島小学校教諭・公認心理師
-
寝屋川市立小学校
-
目黒区立不動小学校 主幹教諭
ご意見・ご要望、お待ちしています!
この記事に対する皆様のご意見、ご要望をお寄せください。今後の記事制作の参考にさせていただきます。(なお個別・個人的なご質問・ご相談等に関してはお受けいたしかねます。)