書字と運動
遠い昔の学生時代、私はスノーボードで派手に転んで肘を複雑骨折したことがありました。それまで周囲からは多少「美文字」と言われることもありましたが、それ以降は字が下手になってしまいました。書こうとしている文字と、実際に自分が書いた文字の違いに今でもがっかりしてしまいます。みなさんも、突き指や骨折などして同じような経験をされたことはありませんか。さて、このように、頭でイメージしている文字の形と、実際に紙面に書かれた文字に違いがある…これは「運動の機能」に問題があるのかもしれません。私の場合は怪我を機に、肘から指先までの筋肉に変な力が入ってしまうようになりました。また、同僚に言われて気が付かされたことですが、私は字を書く際に奇妙な姿勢をしているようです。紙に向かって体は右斜め方向から文字を書いていたのでした。指摘されて自覚をしてから姿勢を真っ直ぐするように意識をしてみましたが、そうすると文字はとんでもなく斜めに曲がってしまいました。これは一例に過ぎませんが、「書く」と言っても、「脳の指令」「神経」「関節」「筋肉」…などと、様々なことが関わってくるので、「きれいな文字を書く」ために、その一つ一つの原因の詳細に解明するのはおそらく途方もない作業なのだと思います。こんな現象が、もしかすると児童・生徒にも起きているのかもしれません。
事例を通して気づかされたこと
今回は、教え子の書字指導の事例について紹介させていただきます。この生徒は、性格的にはとても穏やかで、素直で真面目です。「できるようになりたい」という意欲も強く、たいへん努力家のお子さんです。ひらがな、カタカナ、知っている英単語のスペルなどを書くことができ、現在学校では、授業や学校行事に関することや生活に身近なものの名前を漢字で書く練習をしています。
この生徒に図形の模写をしてもらうと、基本形の○、△、□など、簡単な形の模写はできますが、ひし形の課題で困った顔をしながら「ぐちゃぐちゃになっちゃった…」と言いました。つまり、形の認識はできているのに、うまく書くことが難しいタイプのお子さんでした。
彼には様々な教材を作ってみました。字が大きくなってしまいがちなので、1cm程度のマス目の中に文字のなぞりをする練習、下線に沿って名前を書く練習、小さい小円などの塗りつぶす課題、字のクセを指摘してそこに注意を促しながら失敗しないように書く練習、また、対症療法的ではありますが、浮いてしまいがちな手の側面を私が彼の手の上から支えて机につくようにしながら書く練習…。試行錯誤はしたのですが、なかなかこの生徒にとってよい成果をあげることはできませんでした。どうしたものかと、書字に関する書籍をあさっては、生徒に何かいい手立てはないか模索していました。そこで、出会えたのがこちらでも執筆されている川上康則先生の『発達のつまずきから読み解く支援アプローチ』という書籍でした。この本は、こちらの学びの場.comの教育つれづれ日誌の川上先生の記事が書籍化されたものです。この中にでてくる『鉛筆の正しい握り方ができない子』というタイトルのエピソードを私は何度も何度も拝読しました。そして自分が根本的なことを見落としていたことに気づかされたのです。
このケースにとって効果的だった支援 ~手の使い方
いくらたくさん字を書く練習をしても、根本的な原因を解決しなければ変化は起こりません。書籍では、鉛筆の握り方について紹介されていました。書字練習に関する知育教材や書籍はたくさん存在しますが、「鉛筆の握り方」についてここまでわかりやすく具体的に示されたものを読んだのは初めてでした。内容については、この書籍か、川上先生のつれづれ日誌の『鉛筆の持ち方と姿勢の微妙な関係』というタイトルのエピソードを読んでいただければ一目瞭然です。そこには親指、人差し指、中指は、「つまむ・動かす・操作する」の役割があり、また中指は重複しますが、中指、薬指、小指は「固定する・支える・握る」の役割があると書かれています。
この生徒も、鉛筆の持ち方にクセがありました。親指側の3本の指の位置を指導して修正したことはありましたが、小指側3本の役割を私は見落としていたのでした。書籍の中では、いかにこの小指・薬指の役割が大切かについて書かれており、これらの指を使うような遊びの具体例も豊富に紹介されていました。私もその具体例を実践してみたり、その動きに関連しそうないろいろな遊びを考えては、生徒と一緒に挑戦してみたりしました。例えば、「ゆび綱引き」と名付けたのですが、紐の両端を輪っか状に結わき、片方は生徒の薬指と小指を、反対側は自分の指を通して引っ張りっこをしました。この運動をすることにより、生徒は薬指と小指を内側に強く握りこむ動きの感覚をつかんでいけるようになりました。この運動をした直後に文字を書くと、次第にバランスの良い字を書けるようになってきました。その他にも、100円均一店で見つけたスポンジ製の刀の玩具を使って、休み時間に生徒とチャンバラごっこをしました。確かめてみると、刀を振り下ろす時に小指側3本の指に力を入れているのです。
このケースにとって効果的だった支援 ~姿勢
同時に、書く時の姿勢も指導のポイントとして意識するようにしました。「いい姿勢をしてみて?」と言葉かけすると、その場では直せても次第にまた姿勢が崩れてきてしまいます。この生徒は運動系の部活動にも所属し、体を動かすことは好きでどんな競技でも大変積極的に取り組んでいました。決して筋力がないというわけではありませんでした。ですが、姿勢をキープすることが難しかったのです。どうしてなのでしょう…。これもビデオ撮りなどして、彼の姿勢について何を支援ができるのか、改めて考え直すことにしました。
まず、この生徒は座り方にクセがありました。坐骨を立てて座るのではなく、仙骨座りと言いますか、腰が後傾しているような座り方をしていました。そこで、体幹を安定した状態で真っ直ぐに座れるように、脚の踏ん張りに着目しました。椅子と机の高さを見直し、両脚がきちんと床につき、かつ正しい姿勢が維持できるような高さに調整しました。そして、座位バランスや体幹を養う目的として、日常的にバランスボールを頻繁に使用するようにしました。さらに、バランス感覚や全身の筋力や体幹を養う目的で、廊下の雑巾がけの活動を毎日のクラスの取り組みとして取り入れました。雑巾がけでは、当初この生徒はなぜか親指だけが雑巾から浮いてしまうクセがありました。これも「親指を雑巾につけてやってみて?」と促すと、雑巾がけの動き全体が滑らかになってきました。足のバタつきが減り、止まることなくスムーズに進めるようになったのです。一つのぎこちない動きを修正することで、全体の動きのバランスがよくなることもあるのですね。運動はめっぽう苦手な音楽教師の私には、とても不思議な現象でした。ただ、特別支援教育を続けるのなら、運動について私たち教師はもっと学び理解しなければならないと思わせてくれたきっかけの一つでもありました。
文字の変化から考える支援の在り方
このように、遊びや日常生活の工夫の中から、指や体の使い方の感覚を育てる機会を意図的に設定して書字練習を継続していくと、文字は明らかにきれいに書けるように変化しました。2枚の写真は一ヶ月の変化です。文字が枠の中にきれいに収まり、画数の多い文字もバランスよく丁寧に書けるようになりました。
この変化は、決して苦しくてつまらないプリント学習をして得た効果ではありません。生徒が遊びを通して、楽しみながら指や体をより正しく使う感覚を身に付けられるようになってきたからこその変化だと考えます。教師が赤字で生徒ができない部分を添削するよりも、鉛筆の持ち方や正しい姿勢を意識することのほうがよっぽど効果があり、かつ、児童・生徒も楽しみながら意欲的に学習に取り組めるのだと実感した事例です。
生徒に教えるというよりは、生徒に気づかされ、教えられて、共に学び合わせてもらっていると実感する毎日です。生徒の前向きな頑張りと、保護者の方のご理解やご協力に常に感謝をしています。今回の事例、及び写真については、保護者の方のご了承を得て投稿させていただきました。
参考文献
『発達のつまずきから読み解く支援アプローチ』川上康則(学苑社)2010年
『発達障害のある子どものための たすくメソッド② 手を育てる』齊藤宇開・渡邊倫(ジアース教育新社)2012年
『気になる子どものできた!が増える 体・手先の動き指導 アラカルト』笹田哲(中央法規)2013年
『気になる子どものできた!が増える 書字指導 アラカルト』笹田哲(中央法規)2014年
吉田 博子(よしだ ひろこ)
東京都立白鷺特別支援学校 中学部 教諭・自閉症スペクトラム支援士・早稲田大学大学院 教育学研究科 修士課程2年
知的障害特別支援学校の中学部で自閉症学級を担当しています。子ともたちのニーズに寄り添う支援について、実践紹介を交えながら皆様と共有させていただければ幸いです。
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