教育トレンド

教育インタビュー

2005.09.13
  • twitter
  • facebook
  • はてなブックマーク
  • 印刷

義家弘介 「父親は命をかけて子どもの壁になれ!」 ヤンキー先生の実践教育論

不登校やニートの問題をはじめ、子どもを巡る環境は最近特に悪化しているように見えます。なにが子どもたちをそうした行動に走らせるのか? 子どもたちを取り囲む状況の変化、また、その中でいかに子どもたちとつきあっていったらいいのか? テレビドラマで一躍注目を浴びたヤンキー先生こと義家弘介さんにお話を伺いました。

神話の崩壊がすべての根底

学びの場.com今子どもを巡って、不登校とか、ニートやフリーターといった問題がありますが、これらの問題についてはどのようにお考えですか?

義家弘介昔と今を比較してみると、絶対的に違うことがひとつあります。それは、モチベーションです。昔は、とりあえず大人のいうことを聞いて一生懸命勉強し、いい高校、いい大学を卒業していい企業に就職すれば、ある程度の幸福は保証されていました。この程度我慢すればこのくらいの幸せ、というモノサシを子どもたちが持つことができました。その社会神話が完全に崩壊してしまった。そのためより子どもが迷いやすくなってしまった。だから、学力低下にしても、非行にしても、不登校にしても、ニートやフリーターの問題にしても、この神話の崩壊が全部の根底にあると思います。 そう言う意味では、神話が生きていた頃の教育は手抜きができたともいえます。なぜ学校へ行って勉強しなくてはならないかというモチベーションを子どもに示す必要がない。なぜなら、幸せになるためには学校へ行って勉強しなければいけない、という神話があったからです。でも現代では、学校へ行くことの意味を個別に伝えなくてはならないし、勉強することの意味を一人ひとりに伝えなくてはなりません。それを避けていることが現代の混迷を招いているような気がします。

学びの場.com神話が崩壊した、ということの一方、教員の指導力不足が指摘されることもありますが。

義家弘介その神話が生きていた頃は、授業は下手でも子どもたちは集中して聞こうとしてくれたわけです。そうしないとテストで点が取れない、内申書に響く、だから神話を元に子どもたちを引っ張っていくことができたんです。その方法論のまま、今の子どもたちと向き合ったらどうなるかというと、「情報公開があるから、内申書に悪いこと書けないでしょ」とか、「希望する学校に行けないっていうけど、塾の模試でA判定出ているからご心配なく」といわれてしまいます。 過去の方法論では、生徒と一定の距離を置いて、生徒に畏怖感を抱かせなくてはなりません。人を引っ張るためには畏怖感がなければいけませんから。現在、同じことをしたらどうなるかといえば、「先生なんかなにも見ていない」「ばれなければいい」「いじめがあっても先生は見ていないから解決しない」という失望感にしかなりません。だから「子どもたちのことがわからない」という前に、学校の先生も親も、子どもたちを理解できる場所まで行かなくてはなりません。子どもに対しては、時には親父として、時には兄として、時には教師として接する必要があるのです。そういう当たり前の接し方を取り戻すことが大切だと思います。

公立校にはビジョンがない

学びの場.comこの4月から、現役の教師から横浜市の教育委員になりましたが……。

義家弘介まず前提としては、私は自分のことを現役の教師だと思っています。だから、学校でもフリースクールでも授業をしています。だからそういう立場からいえば、横浜が自分の学校になり、横浜の子どもが自分の生徒になったというふうに認識しています。 自分でいうのも変ですが、これだけ総合的に教育に関わっている教師は日本中探してもいないと思いますよ。まず午前中は学校に行って、子どもと一緒に授業を受けたり授業をします。そして午後になるとPTAの人に集まってもらって忌憚のない意見の交換をします。放課後になると全教員に集まってもらってスクールミーティングという形でその学校の現状とか、学校の抱えている課題について話し合います。つまり一日で、子どもと親と教師と話をして、これを日々繰り返しているわけです。

学びの場.comそうやってPTAの人たちと接して、どんなことを感じますか?

義家弘介横浜の場合、たとえば緑区などでは小学生の半分以上が私立中学の受験をします。なぜかと聞くと「公立学校にはビジョンがない」と親はおっしゃいます。それは、ある意味では正しいと思います。 スタート地点に置いてビジョンがなければ、どこへ進んだらいいのかわかりません。ビジョンというのは目標であり、子どもたちにとっては夢でもあるわけです。ビジョンがあるから人は努力するのであり、それがいくつもあったり曖昧では、教師集団が同じベクトルで頑張っていくことができません。だから、公立学校が親の期待に応えるためには、明確なビジョンを打ち出すことが大前提だと思います。 公立校をよくするための方法はたくさんあります。教育委員は人事にも関われますし、どんなことでもできます。横浜市の520校に関しては様々なことができるんです。やれることや課題はいくらでもあります。それに、学校が多いからいいこともあります。横浜市には520校ありますから、極端にいったら日本でいちばんいい先生がいるかもしれない。そういう先生たちが面となって手をつないだらどんなことになります? すごいことになりますよね? だから、ワクワクするようなダイナミックなことができる街でもあります。

「なぜ?」ではなく、「~だから」を探す

学びの場.com先ほどの話に戻りますが、過去の神話が崩壊した今、子どもたちとどのようにつきあっていったらいいのでしょうか?

義家弘介なぜ学校に行かなければならないのか? なぜ勉強しなければならないのか? なぜ命を大切にしなければいけないのか? これらは、学歴社会を生きてきた今の大人にとっては当然の疑問です。なぜなら我々は、小学校の頃から「なぜ?」の答えを出すことに集中してきたからです。だから、困難に行き当たったときにも「なぜ?」が先行してくる。 ここで、教育に携わるものは発想を転換する必要があると思います。まず、個々の子どもたちとしっかりぶつかって「~だから学校に行こう」「~だから勉強しよう」「~だから命を大切にしよう」という「だから探し」を子どもと一緒になってしていくことです。子どもが「なぜ?」という地獄に堕ちているわけですから、大人は「~だから」という具体的な指針を発しなければ、子どもたちに対して説得力のある話はできないんです。 たとえば子どもが「学校に行きたくない」といったとする。「君はどういう未来を描けるのか?」「描けない」「じゃあ、今精一杯できることは何なのか?」それで、これならできる、あれならできる、という話になってくる。そこで、「じゃあそれを実現するために学校へ行こうよ」という話になるわけです。

父親は子どもの壁になれ

学びの場.comそのほかに、子どもに対する親の姿勢で大切なことはありますか?

義家弘介家庭で意識変革が必要なのは父親です。母親は自分が命がけで子どもを産んでいる分、盲目的になりがちなところがあります。母親が命をかけて子どもを産んだなら、父親は命をかけて「ダメなものはダメ」という、子どもの壁であり続けるべきです。なぜあえて壁というのかというと、子どもは父親という壁を乗り越えずに大人になることはできないからです。 たとえばこういう親がいます。子どもが喫煙したことを知って注意をするが、いくら注意をしても子どもがやめない。そうすると最後にはこういいます。「家では吸ってもいいけど、部屋から外に出たら絶対いけない」。これが、喫煙が日常化する前の最後のハードルなんです。外へ出たら、注意する人なんかいません。注意をするのは親だけなんです。その親がいいといったら、もうどこへ行っても吸ってもいいことになってしまいます。そういうふうに、きちんとすべきリミットセッティングを曖昧にしてしまう。これでは子どもの躾はできません。社会に通用する倫理観を持った人間を育てるためにはある意味厳しさが必要です。 今、心療内科に思春期の子どもたちが集中しています。たとえば、「思春期鬱」という言葉がありますが、これは病気でしょうか? 「もう死にたい」というだけですぐに病院に行って、安定剤が安易に処方される。心療内科は薬を出さないとポイントを稼げないからです。

義家弘介あるいは、思春期に眠れない夜があるのは当たり前なのに、「眠れない」というだけで心療内科に行って睡眠薬をもらう。思春期に、夜眠れないで悶々と考えたことは意外と人生の栄養になっているんです。それを安易に薬に頼っていては、ある意味成長する機会を奪っているんじゃないでしょうか。 いまATスプリットという治療法が注目されています。ここでAというのはアナリスト(医者)、Tはセラピスト(カウンセラー)のことです。つまり、医者とカウンセラーで患者をはさむ方法です。医者は医者として、症状が悪化したらリミット設定をします。たとえば、これ以上悪くなったら入院しかない、と患者に告げます。それに対してカウンセラーはホールディングを行います。先生はああいっているけど、自分にはどれだけ憤りをぶつけてもいいから、といって受け止めます。このように、AとTの間で患者が行ったり来たりすることで、治療効果が飛躍的に上がります。 この治療法を聞いたときなるほど、と思ったんですが、医療の分野では新しい言葉ですが、教育の領域では当たり前に行われてきたことなんです。悪いことを繰り返す子どもに対して、お父さんがげんこつを食らわせて子どもを家から放り出す。そうしてしばらくすると玄関の戸が開いて、母親が温かく迎え入れてやる。要するに、父性によるリミットセッティングと、母性によるホールディングです。こうやって子どもは成長してきたはずなんです。 それが今はどうなっているかというと、ダメなことをダメともいえずに何でも「いいよ、いいよ」といってしまう。壁がないから、子どもたちはどこまででも行ってしまいます。ダメだといえば子どもから時に恨まれます。でも教育の目標は子どもたちの成長ですから、成長のためには憎まれることも必要なんです。だから私は「しかったことのある人間だけがほめる権利を持っている」といいます。しかりもせずにただ「いいよ、いいよ」というのは愛情でも何でもありません。本当に子どもがかわいいなら無責任に「いいよ」なんていえないはずです。父親が命をかけて壁になるべきだ、というのはそう言う意味です。 それをできる人が少なくなった結果どうなっているかというと、制度によるリミットセッティングが増えていきます。つまり、校則とかルールが厳しくなる。それが今の、意味のわからない校則だらけの学校の姿です。ただ、制度によるリミットセッティングは人間がやっているわけではありませんから、容赦がありません。つまり、子どもの成長のためにリミットを設けるはずなのに、制度に頼ると秩序の維持が目的になって、子どもたちはどんどん切り捨てられていくんです。 現代は、「少年よ大志を抱け」というより、「大人たちよ大志を抱け」といいたいです。そんな当たり前のことも忘れて「今の子どもたちはわからない」といっていてはダメです。小さいときからその時その時に当たり前のことを注意する。それが教育の原点だと思います。

「普通の子」なんていない

義家弘介それから、もうひとつ意識改革をしてほしいのが、誰に手をかけるのか、ということです。これまでは問題のある子どもとエリートだけに光が当てられて、その中間にいるいわゆる普通の子どもは放っておかれました。でも、最近問題を起こしているのはこうした普通の子どもたちです。でも、考えてみれば「普通の子」なんているわけがない。親にとって自分の子は誰でも「特別な子」のはずですし、「問題のない子」というのもありえません。だから、目の前にいる子どもは誰でも特別な、問題を抱えている子どもだと思ってしっかり手をかけてやることです。我が子のことを親以上に知っている人はこの世にいません。だから親こそが、「子どもにはこんな未来を歩んでほしい」という期待を持って子どもと向き合ってもらいたいですね。

義家 弘介(よしいえ ひろゆき)

1971年長野県生まれ。中学生の頃から「不良」と呼ばれ、高校で退学処分を受け、北海道余市郡余市町の北星学園余市高校に編入。明治学院大学卒業後、進学塾を経て母校の北星学園余市高校の社会科教師に。その時の話をモデルにした『ヤンキー母校に帰る』がドラマで放送され、注目を集める。現在は横浜市の教育委員。

聞き手:高篠栄子/構成・文:堀内一秀/PHOTO:岩永憲俊

※当記事のすべてのコンテンツ(文・画像等)の無断使用を禁じます。

ご意見・ご要望、お待ちしています!

この記事に対する皆様のご意見、ご要望をお寄せください。今後の記事制作の参考にさせていただきます。(なお個別・個人的なご質問・ご相談等に関してはお受けいたしかねます。)

pagetop