2007.08.27
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夏休みの不自由研究?

埼玉県朝霞市立朝霞第十小学校 教諭 北川 誠

 夏休みもいよいよ終盤戦(地域によってはもう新学期が始まっている?)である。
そして、この時期全国の家庭では子どもたちは休み前に出された宿題に四苦八苦しているのではないだろうか?

 その宿題の中の一つに「夏休みの自由研究」というものがある。夏休みには何でもいいから自分で課題を見つけて、それをまとめてみよう。という宿題である。

 以前ある受け持ちの子どもから言われたのだが、
「先生この宿題はある意味矛盾しているね。それは、この宿題は、研究するかしないかが自由な研究ということではなくて、宿題だから絶対にしなくてはいけないものだよね。」
ある意味きわめて不自由な研究であると…
確かに一理ある。

 例えば国語の時間に作文を書かせるときも、題は何でも自由だから原稿用紙で必ず3枚書け、なんていう課題を出せば大ブーイングが起こることは間違いない。多くの子どもたちは、題を考えるだけで時間の半分以上を使ってしまう。
 
 落ち着いて考えると分かるのだが、何かを必ずしなければならないと義務を与えておいて、何でもしてもいいよ自由だからというのは、実は全然自由ではないのである。
 また、この時期本屋に行けば、「自由研究キット」などというおかしなもの(?)が必ず売られているし、学校によっては「こんな自由研究がありますよ」とわざわざ自由に出来ないようにプリントを配ることもある。

 話は少し変わるが、自由業という職業があるが、これもある意味変な言葉である。もちろん働いても働かなくてもまったく自由な職業ということではないし、仕事を毎日変えてもかまわないという職業であるわけでもない。決まった組織や団体に所属せず、縛られないというだけのことだろう。しかし自分で選んだ仕事からは決して自由であるわけではないから、本来の意味の「自由」ではないのでは…。

 何か「自由研究」という言葉には、普段の学校生活から解放された時間のなかで、自由に行われる研究というポジティブな語感を持つのだが、
 実は…
    子 「自由研究だけど何したらいい?」
    親 「そんなこと自分で決めなさい。」
  (実はこの会話は教師である私と自分の子どもとの会話であった。)

 というような会話を今この瞬間も全国各地の親子で繰り広げられていると思うと、宿題の出し方を少し考えなければならないなと思うのは私だけであろうか。

 ※写真は本校が緑化対策事業として行っている緑のカーテンである。
P1000001_s.jpgP1000002_s.jpg

北川 誠(きたがわ まこと)

埼玉県朝霞市立朝霞第十小学校 教諭
「駄洒落」を立派な日本の文化・言葉の見立てと考え、子どもたちからは「先生 寒~い」と言われてもめげず連発してます。モットーは「花には水を人にはユーモアを」。

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