2007.06.03
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雨に降られた

京都外国語大学 非常勤講師 森 美抄子

 前に「日本語文化」のお話をしましたが、今回はそのパート2を。  「自動詞の受身」について考えてみましょう。

 一般的に受身表現というのは、動作主がいます。

 「先生にほめられた」
 「知らない人に道を尋ねられた」
 「詐欺師に高価な壷を売りつけられた」

 などの文は、受身の主体である「私」などは省略されますが、動作主は普通省略されません。もちろん、文脈の助けがあれば

 「秘密の話を聞かれた」

 のように、人物が登場しない文もあり得ます。
でも、これを外国語に翻訳しようとすると、誰が誰にという情報が必要になることがわかります。

 日本語は誰というのを明確にしないで話をしようとする文化なんですね。これは前回の結論と変わりません。

 外国語にない発想は次のような受身文です。

 「雨に降られた」
 「彼女に泣かれた」
 
 このような自動詞の受身を日本語教育の世界では「迷惑の受身」とよんでいます。
 「誰」が「誰」に、ということを明確にしなければならない言語では、自動詞はそのままでは受身になりません。ところが日本語では相手が自分に対してしていることではない場合にでも受身になり、その意味するところは「困る」「迷惑だ」「大変だ」ということです。

 「あんなところで寝られちゃ困るよ」

 というのは、寝た人は「私」に対して何かをしよういう意図がないけれども、結果として私を困らせているわけです。動作主は意識的にしていないことを、「私」は「困ったことだ」と感じています。

 このような発想がある・・・つまりは「気遣い」の文化ですね。

 この表現を使えば、直接的に誰かを責めることなく、自分は迷惑だったのだと伝えることができます。また、「迷惑」になることを避けようとする文化だからこそ、このような表現があるのだと思います。無意識にしたことが、迷惑をかけることもあるんだよ、とこの受身文は教えています。

 ストレートな文化だと「雨に降られた」も「突然雨が降ってきたせいで、びしょ濡れになった」と、結果まで言わなければならなくなります。
 はっきりと迷惑だと言わず、迷惑だと表現する。これが日本語の文化。
 

 「現職の大臣に死なれて・・・」

 とは誰の弁?

森 美抄子(もり みさこ)

京都外国語大学 非常勤講師
留学生たちに日本語を教えるのが仕事です。そして、日本語教育を学んでいる学生たちにその面白さと厳しさを伝えていくのも仕事です。人間だって宇宙人、日本語だって外国語。

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