全ての活動の意図を、あなたは説明できますか?
4月、新学年が始まりました。期待で胸が膨らむとともに、あの怒濤のような忙しさの4月が再来しました。会議のオンパレードに書類の数々・・・家庭訪問や初めての授業参観など、行事も目白押しです。
どうしても、失敗無く“こなす”ことに目がいきがちなことも・・・。
一方、「黄金の3日間(または1週間)」などの言葉からもわかるように、子どもと初めて出会った始業式からの数日が、学級経営上のたいへん大きなウェイトを占めることもよくわかっている。だから、「今年のスタートを大切にしよう。学級活動でこんなことをしてみよう、授業もがんばるぞ。」という思いで胸がいっぱい。授業はしっかりつくっていくぞ・・・。
じゃあ、授業以外はどうですか?
休み時間や給食指導の時の意図をあなたは説明できますか?
子どもの呼び方も、~さんと呼ぶのか、~ちゃんと呼ぶのか意識していますか?そしてまたその意図を説明できますか?
「前へならえ。気をつけ。やすめ」の姿勢をさせる時の意図は?
もっと言えば、教師の立ち方、立ち位置の意図は?目線の合わせ方は?
休み時間の教師の行動は?何を意識していますか?
あなたは、説明できますか?
私は、説明できます。
学校で行われている全ての活動は、「教育活動」です。
つまり、全教育活動を通して、子どもの人格を形成していくのです。全教育活動は、子ども達が、自立にむけての成長を果たしていくもの、社会に貢献する姿勢を培うものでなければならないのです。数々出てくる友達とのトラブルも、自立への一歩。トラブルを乗り越え、大きく成長していくのですから。
授業時間以外の時も、子どもはあなたの価値観をみています
子どもは、教師のものの見方を、本能的に感じ取ります。特に、初めて出会い、「この先生が担任!」となったその瞬間の感度は、ものすごいものです。「黄金の3日間」と言われるゆえんです。褒めるも叱るも、ただ単に、雑談をするも、すべて担任のもつ微妙な価値観を子どもは、無意識に感じ取り、どの人格の自分を出すのか、選択されていきます。それは、徐々に徐々に行動として表れてくるので、すぐには見えません。教師は、ぶれない価値観とありあまる愛情もち、そしてその価値観と愛情をしっかりと子ども達に伝えなければ、すこしずつずれていきます。そしてそのずれは、2学期にもなると、とりかえしのつかないところまでいき、学級崩壊ということも考えられるのです。学校全体の教育力がしっかりある時は、学級崩壊までいきませんが、何の成長もなければ輝きもない学級に陥っている場合もあります。いちばんこれがやっかいですね。何事もないということでよかったと思うような教育は、教育ではありません。やはり、個人個人の成長と集団としての高まりが感じられるようになってこそ、教育を果たせたといえると私は、思います。
「~しては、いけません。」その一歩先へ!
さて、あなたは呼名をどのように行いますか?学校で決められている場合もあるかもしれませんが、どうしてそのようなきまりになっているのか、分かってつかっていますか?
また、子ども同士の名前の呼び方はどうあるべきだと思いますか?「人の嫌がる呼び方、あだ名や悪口を言ってはいけません。」よくある言葉です。“~しては、いけません”それはその通り。でも、~はだめだけで終わっていて、子ども達に良好な人間関係をつくろうとする姿勢が養われるでしょうか。1人1人の尊厳を大切にしようとする姿勢が大事で、それをどうやったら行動にできるのかを教師が教え、導くことが必要です。
私は、新学年の初めに、必ず、呼んでほしいニックネームを子ども達に紹介してもらいます。しかも、ゲームを通して行います。10年前に研修でおしえてもらった参加型ゲームをアレンジしました。
《名前まわしゲーム》
(1)教室で机を後ろに送り、全員で大きな円をつくり内側をむく。(男女交互に並ぶことも指示。)
(2)呼ばれたいニックネームを言う。このとき、リズム良く(4分の2拍子かな)、間に手拍子をいれて。
例えば、「はなちゃん」パンパン「たろう」パンパン「けいこちゃん」パンパン・・・というように。担任は円の内側にいて、応援するように、声をかけていきます。
(3)2巡目は、同じようにリズム良くみんなで呼んでいきます。
(4)次は、名前回しゲーム。自分のニックネームを言った後、隣の子のニックネームを呼びます。呼ばれた人は、また自分のニックネームを言って隣の子のニックネームを呼ぶ。間に手拍子を入れて。
例「はなちゃん、たろう」パンパン「たろう、けいこちゃん」パンパン「けいこちゃん、ましゃ」パンパン・・・(ちなみに、ましゃとは、福山雅治のニックネーム)
そして、もし止まったら、みんなで助ける!どうやって助けるか。心を一つに、「うわあ」といいながら、前に倒れ込むふりをする。(さすが、関西!)そして、何の合図もないけれど、全員で、「おお~」といいながら立ち上がり、何事もなかったかのようにする。
(5)(4)で慣れてきたら、隣の人ではない人のニックネームを呼び、(4)と同じことをする。
ただし、「全員が呼ばれたかどうか、考えられるといいね」と、促しておく。
初めてこのゲームを行うときは、うまくいきません。だいたい私は、4月と6月下旬、そして2学期に行います。そして、「前よりも、スムーズに呼べたね。」「こけることが、女の子も思いっきりできるようになったね。みんなでやりきれることは、信頼が生まれている証拠。すばらしい。」と価値づけます。去年度に受け持った6年生は「みんなが笑顔になれるニックネームだから、にっこりネームだ!にっこりネームで毎日呼ぼう!」と言って、学級がスタートし、1年かけて、意識していました。どうしても言葉が乱れるときは、「最近、にっこりネームが減っているから、使おう」という言葉が、終わりの会などで出ていました。
このような活動をなぜわざわざ、学級活動で行うのか。それは、同じクラスになったからといって、すぐに「友達」ではないという現状があるからです。(「仲間の押し売りしていませんか?繋がり、高め合う意図的な学級経営を」の回にも書きました。)繋がるきっかけを担任が与える、しかも、認め合える繋がり方を与えることが必要です。認め合う関係は、まずは名前の呼び方からでしょう。
学級全員で円になることもよくします。まるというのは、それだけで、連帯感が生まれるからです。また、学年初めは、子どもをじっと座らせてばかりでなく、よく動かします。私自身が話すときにも、よく動きます。手振りも大きくします。目を動かしたり体を動かしたりして、不安に思う気持ちを動くエネルギーで発散させ、陰のエネルギーとしてだすのではなく、陽のエネルギーに変えていくことも、ねらっています。
また、クラスには、少なからず、集団にすぐになじめない子がいます。その子と周囲をつなげる手だてとして、休み時間は、私も「にっこりネーム」で子どもの名前を呼びます。色々なご意見があると思いますが、私の意図は、集団と関わるのが苦手な子を、私を通して、新しい周囲とつなげていくことです。先生がどんな風にその子その子を見ているのか、子どもはよく見ています、感じています。思いっきり、私が心を開いて、にっこりネームで呼び、周囲につなげていく。そのような心を開いて明るく交わる姿勢は、語弊のある言い方かもしれませんが、感染していきます。
ただし、授業中は、別です。授業はフォーマルの場。そういうことも、子ども達に感じてもらわねばなりません。「授業中は、男の子も女の子も~さんと呼びます。社会に出たら、さん付けで呼ばれるからです。」そして、できるだけ丁寧語を使います。ただしこれもまた、外すこともあります。授業の緊張感や惰性をちがう空気に切り替えたいときです。「おやじギャグ」は、松井先生の代名詞。授業の切り替えや頭の回転をよくするため、ひいては、社会に出たときに本物の「おやじギャグ」に切り返し対応できるような、コミュニケーション力を養っています。(なんちゃって。ただのDNAです。すみません。)
休み時間に、雑談や失敗談のような話をすることにも、私は意図をもっています。教師が気持ちをゆるめ、油断をしている姿勢を見せることで、心を開く姿勢を伝染させていくのです。先生のちょっとした失敗談は、結果主義で、間違うことや失敗をはずかしいと思う気持ちを解くきっかけになるだけではなく、先生を助けてあげようという気持ちにもなり、子ども同士の関係でも、同じような姿勢をもつようになってきます。
しかも、一部の子に対してだけ雑談をしないように、心がけます。教師の周りにもよって来られないような子を見つけては、私から話しにいきます。もちろん、男の子にも女の子にも。
「先生は、平等だと思いました」
去年度の6年生、卒業前に、ある女の子が「先生は平等だ」と作文に書いてくれていました。もともと前にでないタイプの子でした。でも、正しいことをよく判断できる女の子で、去年の半ばぐらいからは、色々な提案を学級にしてくれるようになった子です。
とかく教師は、指導の必要な子やリーダー的な子にかかわりがちかもしれません。でも、なんとなく教室にいることのできる子達も、よりよくかわりたいと思っているし、もっと仲良くなりたい、友達とも先生とも仲良くなりたいと心のどこかで思っているのです。
「先生は平等」それは、みんなを同じように愛してくれているということです。同じ量で関わっていることだけではありません。先生は平等と書いてくれた女の子が、他にもこんなことを書いてくれていました。
「悪いことをした子にも、しっかり怒ってくれるけど、次によくなるように、信じてくれている。」
叱った後は、すっきりと、笑顔になるように私はいつも心がけています。そんな小さなことも、子どもは見ているのです。
叱る時も褒める時も、雑談も、全て子どもは見ています、感じています。
教師が、一瞬見せる、ぼーっとしている顔も見ていますよ。
小さい学年であれば、上記のようになかなか文章表現で伝えはできませんが、必ず、細胞にあなたの教育観が染みています。
今年度は、14年ぶりに1年生の担任です。1年生にどのように伝えていくか。切磋琢磨の毎日が、入学式から始まります。(これを書いている今は、まだ新しい子どもたちに出会えていないんです。卒業式で子どもを送り出し、修了式には受け持ちの子がおらず、今日の始業式にもまだ受け持ちの子がいないという、さみしい状態です。)
新しい出会いに期待する気持ちと、人権感覚をとぎすませた細心の心構えで、臨みます。
給食の時の意図や「前へならえ」の時の意図については、また折りを見て、書かせていただきます。
今回も長くなってしまいました。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。この第19期も、よろしくお願いいたします。
松井 恵子(まつい けいこ)
兵庫県公立小学校勤務
兵庫県授業改善促進のためのDVD授業において算数科の授業を担当。平成27年度兵庫県優秀教職員表彰受賞。算数実践全国発表、視聴覚教材コンクール特選受賞等、情熱で実践を積み上げる、ママさん研究主任です。
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