前回までの二回は私の経験をもとに、発達障害のある子どもたちをどのように察知していくのかということを書いてきました。早期に彼らのもつ困難さを見つけてやれば、適切な支援を通して大きな成果を上げることができるということも併せてお伝えしました。
残念なことに、大人になってから発達障害に対応しても、子どものときのような成果を期待することはできません。なぜなら、子どもたちは発達の途上にあり、支援によって発達をよりよい方向に促すことができるのに対して、大人は肉体的にも精神的にも完成してしまっているからです。子どもたちには、可能性がたくさんあるのです。発達障害のあることを見逃してしまい、ずっと後になってから、「もっと早くに対応していれば・・・」という悔いをもたないためにも、たくさんの人が発達障害を理解し、支援していこうという温かい気持ちをもっていただきたいと思います。
さて、今回は、発達障害の子どもたちが、どのような点において困っているのかを考えてみたいと思います。
最初に気をつけなければならないのは、発達障害のある子どもたちが、自分の困難さに気付いているかどうかということです。イライラする自分を抑えきれずに暴力を振るってしまうとか、勝負にこだわってルールを勝手に変えてしまうとかといった行動のパターンを、子ども自身が困難だと考えているとは言い切れないかもしれません。子どもたちの心は、大人が想像するような感じ方や考え方をするわけではないと思われるからです。子どもたちには、相手の気持ちとか感じ方を自身と比較することは容易にはできません。大人と比べて、圧倒的に経験が少ないからです。
では、何が最も困るのかと言えば、頻繁に叱られることかもしれません。家でも叱られ、保育園や幼稚園、学校に行っても叱られることが多いのではないでしょうか。それは、子どもたちが悪いことをしたと自覚している場合に限られるわけではありません。なぜかわからないけど叱られるのです。
例えば、こだわりが強くて家族と一緒に行動することができない、教えたことをすぐに覚えられずに手を焼かせる、といった理由で叱られるのですから、子どもにとってはたまったものではありません。他の子どもと比較された結果できないと判断されたことや、大人の都合にそぐわないからという理由で叱られるとすれば、理不尽なことだと感じているかもしれないのです。
学校生活の中でも子どもたちから、「なぜ僕だけ叱られるの?」という言葉が発せられることがあります。もちろん、そういった言葉の背景には、「同じことをやった友達が叱られないのはずるい」と思っている場合もあります。一方で、「いつも、大人たちからは、なぜか自分だけにきつい言葉を浴びせられている」と感じている子どもがいることも確かです。
否定的な言葉で叱られ続けると、子どもたちの自己肯定感は低くなるばかりです。自己肯定感というのは、「自分もまんざらではない」と感じる心です。「こんなことができる自分を好きだ」と思える心です。自己肯定感を自尊感情とも言い換えることができますし、自己評価という表現を使えば、それが著しく低くなってしまうと言うこともできるでしょう。
もうひとつ問題になることは、「悪いことをしているとは思えないのに、なぜか叱られる」ということが日常化することです。なぜ叱られているのかがわからないと、子どもたちはどのように振る舞えばよいのかというスキルを身に付けることが困難になります。悪いことをしたときには叱る、そうでないときには言って聞かせるという対応の切り替えが大事になってきます。
さて、叱られることのほかに困難さがあるとすれば、友達関係を築きにくいという点ではないでしょうか。友達とかかわりたいという欲求は、誰にでもあるものです。孤独ということが、人間にとって最も耐えられないことだと強調する心理学者もいます。ですから、自己をコントロールしたりバランスをとったりできないことが原因で、友達を作りにくい、あるいは良好な人間関係を構築しにくいといった問題が、大きな困難さと感じられるようになってくるだろうと推測されます。
友達がいない学校は、子どもにとって味気ないものです。安心して学校生活を送る上で、友達は欠かせないからです。どんなに心を尽くして話し相手になったとしても、教師が友達に取って代わることはできません。
さらには、子どもたちが高学年になってくると、キレて泣き叫んでしまう自分を許せなくなってしまうとか、自分は友達と異なる存在かもしれないといった不安感が大きくなるように感じます。7~8歳くらいの子どもと、思春期を目の前にした子どもの感じ方には、少なからず違いがあるという視点を忘れずに、子どもたちとかかわっていくことが大切です。このほか、過敏な子どもたちは周囲の音を感じすぎてしまい、それが苦痛になることもあるでしょう。勉強をがんばっても、なかなか覚えられないことへの苛立ちもあるかもしれません。
このように、子どもたちの困難さは、一人一人異なるものです。それをどのように察知し、共感を通して支援していくことができるか、それを見極めることは、私たち教師の大きな課題のひとつです。
では、発達障害かもしれない子どもをもつ保護者は、どのような困難さを抱えているのでしょう。ひとつには、幼稚園や保育園、学校から、子どもに対する否定的な情報しか得られないということです。「お宅のお子さんは、今日もこのような状態でした」「理由もなく友達に暴力を振るいました」などなど、例を挙げるまでもなく、気分が落ち込むような連絡がもたらされます。ある保護者からは、「電話に出ると、必ず学校からで、我が子の悪いことばかり聞かされる。一時は電話の音が怖いと感じることがありました」という話を伺いました。
その一方で、保護者の方にとって、我が子が発達に何らかの困難さを抱えている、ということを受け入れるのは容易なことではありません。「何とかしなければならない」と感じたとしても、「我が子に限ってそんなことはない」とか、「他の子どもと変わらないのになぜ?」といった不安が心をよぎることを、教師は十分に理解しなければならないのです。
それから、保護者にもたらされる否定的な情報によって、子どもたちが好ましい方向に向かうのかどうかについても疑問が残ります。そういった情報が伝われば、どうにかしなければという焦りから、さらに子どもを叱ることになるかもしれません。そうすると、子どもたちは、二重にも三重にも叱られることになるのです。理不尽な思いは、どんどん増幅されていってしまい、いわゆる二次障害が懸念されるようになってしまいます。二次障害とは、否定され続けることが原因で暴力的になってしまったり、逆に内側に閉じこもってしまったりすることです。その結果、登校をしぶるといったようなことが起きてしまいます。情報を伝えるのはいいことですが、子どもたちのためになる伝え方を模索し、スキルを上げていかなければなりません。
最後に、学校などでは、どのようなことに困難さを感じるのでしょう。教師にとっての困難さは、多人数の子どもたちを一人の教師だけで教育していかなければならない現状にあって、困難さを抱えた子どもたちに個別的な対応をしきれないということです。授業中にも友達とけんかを始めてしまい、注意しても止まらなくなるとか、歩き回って教室の外に出てしまうというようなことがあると、一人の力の限界を感じてしまうことになります。
また、授業の内容を理解させるまでに多くの時間がかかるのにその時間を取りにくいとか、友達関係が築きにくいためにいつも一人で遊んでいるとか、それらのことが原因となって学校に行きたくないといった状況が引き起こされてしまうことにも、胸を痛めることとなります。
一方で、保護者が子どもの発達障害を感じ取り、学校に申し入れをしても、教師が理解不足で対処できない場合があることも忘れてはなりません。私たち教師はプロ意識をもって、教育的ニーズに応えられるように研鑽を積んでいかなければならないのです。
このように、子どもたちが発達に何らかの課題を抱えていると、本人はもとより周囲の大人たちは、それぞれに不安や困難さを抱えることになります。そして、一人の子どもを巡る教育の歯車が、噛み合わなくなってしまうのです。その現状を打開するために、どのような対応をしていけばいいのかについて、次回は話を進めていきたいと思います。

荒畑 美貴子(あらはた みきこ)
特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com
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