2014.05.27
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教育現場からのリポートNO.4 「発達障害をどのように察知するか」

特定非営利活動法人TISEC 理事 荒畑 美貴子

 前回までに、発達障害の子どもたちのイメージや、彼らが理解されにくいことなどについて書いてきました。そして、発達障害のある子どもたちは表現する手段が未熟なため、自分の置かれている状況を説明できずに大きな不安感を抱えていること。困難さを理解するために、大人が率先して子どもたちの心に寄り添い、支援していくことが大切であるということをお伝えしました。ぜひ、前回までの投稿を読んでいただき、私の思いを受け止めていただければと思います。

 

さて、今回は、私たち教師が、子どもたちのどのような様子から、発達障害ではないかと考えるのかについて話を進めていきましょう。以前にも書いたように、発達障害の診断は医師に委ねられており、私たち教師が決めつけることはできません。でも、子どもたちと長い時間一緒に過ごす立場であることを考えれば、真っ先に気付くのが教師でなければならないと考えています。ですから、教師が発達障害に関する知識をもち、見極めをしていくことはとても大切なのです。

まず、その重要性に気付かされた経験を、ご紹介したいと思います。

 前回、登場してもらったB君は、耳で情報を受け取ることに苦手さがありました。しかし、それを当時の担任に見抜いてもらうことができなかったため、不登校になってしまいました。1年間ほど学校を休み、私の勤務校に転校してきました。そして、私が担任して間もなく、彼の困難さに気付いたのです。保護者にそのことを伝えると、「もっと早くに子どもの困難さを教えてもらえれば、不登校にならずにすんだのに」と言われました。保護者の方の悔しさがよくわかり、私たち教師が、もっと勉強をしなければならないと痛感したのを覚えています。

 

 ところで、私がなぜB君の困難さに気付いたのかというと、彼をよく観察していたからです。どのようなタイミングで他の子どもたちと異なった反応をするのかを察知することで、困難さを感じ取ることができました。しかし、観察と言っても、彼の行動だけを見ていたのではありません。彼の心にどのような動きがあるのかも含めて、読み取ろうとしていました。「観察」という言葉の中には、見えないものを感じ取ろうとする働きがあることも覚えておいてください。

 そして観察する際、言葉による指導で成果が上がっているのかどうかに気をつけてみてください。発達障害ではないかと思われる子どもたちは、繰り返し指導しても、その成果が上がるまでにかなりの時間を必要とします。ときには、言葉以外の支援を工夫して行っていく必要もあるからです。

 では、私たちが発達障害ではないかと心配する子どもたちの様子を、例を挙げてお伝えしていきたいと思います。

まず、授業中には手を挙げてから発言しようと指導しても、出し抜けに発言してしまう子どもがいます。場の空気や、周囲の子どもたちへの配慮に欠け、自分だけが教師と向き合っているように考えているのではないかと感じさせます。話の流れについていって、当然このような反応をするだろうと大勢が考えるような言動が苦手なようです。

 また、過度な集中によって、周囲の子どもたちと足並みをそろえた生活ができにくい子どもたちもいます。例えば本を読み始めると、途中で切り上げることができません。自分の世界に入り込んで遊んでしまい、そこから抜け出すのにとても時間がかかるのです。家庭でなら待ってやることができますが、大勢が生活する学校では、個別の対応に限界を感じることがあります。

 それから、感情のコントロールに困難さを抱えている場合もあります。例えば、冗談を受け止めきれずに、すぐに怒り出してしまったり、勝負にこだわってしまうために、ドッジボールで負けたときですら大泣きしてしまったりすることがあります。自分の思い通りにいかないと、すぐにキレるという形で、感情を爆発させてしまうのです。逆に、心が凍りついてしまったかのように反応がなくなり、その場にたたずんでしまう子どももいます。

 興味があちこちに向かってしまうので席を立つことが多く、集中して学習に取り組むことが困難だと思われることもあります。それに加えて、手いたずらがやめられないという様子が見られることもあります。身体のどこかを動かしていないと、落ち着かない気分になっているようにも見受けられます。

 手が年齢不相応に不器用で、はさみが上手く使えないとか、ボール運動だけがきわめて不得手であるといった様子から気づくこともあります。

 「こだわり」は、いろいろな場面で見られます。何かに執着しすぎてしまうのです。自分のパターンを守り抜こうとしているために、協調性をもって生活することが困難になっているように感じます。この「こだわり」をイメージすることはとても難しいので、次回に詳しくお話しすることにします。

 

 これらのような困難さに加えて、彼らがとても過敏であることも忘れてはなりません。心が薄いガラス細工でできているように感じることがあります。些細なことに対しても敏感に反応し、心がパリンと割れてしまったのではないかと思わせられるのです。

 さらに、こういった発達のアンバランスを見極めてもらえず、叱責を繰り返されることによって、ますます暴力的になるとか、自分の世界に入り込んでしまうといった、二次的な障害が懸念される場合もあります。

 

 このように書き出してはみたものの、子どもたちの問題は多種多様であり、ひとくくりにして表現することは難しいと感じています。また、どの子どもであっても得手不得手があるのは当たり前のことなので、発達障害とは言い切れない場合もあります。

 何回か繰り返し教えたり、やり方を工夫したり、いつもより丁寧に教えたりすることによって改善することがあるときには、大きな課題を抱えているとは言えません。その見極めには、経験がものを言う場合もあります。また、専門家の力を借りて支援の方法を考えていくことも必要です。若手の教師にコツを教え込んでも、すぐに見極められるわけではないということもご理解いただけると思います。

 

 ところで、最近気になるのは、「うちの子はグレーですから」という表現を使われる保護者が多いことです。誤解を招くという理由から、「軽度発達障害」という表現が使われなくなりました。でも、グレーという表現を使うとき、「うちの子どもは、軽い困難さはありますが、たいしたことはありません」という意味を込めているのだなと感じます。親御さんの気持ちは十分にお察しできるのですが、むしろ子どもがどこで躓いているのか、何に困っているのかを見極めてやろうとすることが優先されなければならないと考えます。また、グレーだとか、白だとかといった曖昧な表現で、子どもたちを判別するべきではないと思っています。

 何度も申し上げているように、誰でもが多少の困難さを抱えているのです。それでもなお発達障害を見極める必要があるのは、早期に気付くことで子どもたちの困難さを支援することができるからです。それが、子どもたちの安心感につながるからです。

 また、早くに対応することで、それをうまくコントロールしたり、バランスをとったりすることができるようになるのを助けることができます。二次的な障害を防ぐこともできます。困難さをかかえているのは子ども本人なのであり、支援することによって、発達を促すことができるということを忘れるべきではありません。

 子どもたちの周囲にいる大人が、どのような対応をしていけばより効果があるのかを知るのに、とても役立つ本があります。この本は、イラストでわかりやすく表現されており、気軽に試すことができる知恵がつまっています。もしよかったら、お手にとってご覧ください。

 「うちの子、なんでできないの?」東京学芸大学教授 小笠原恵著 文藝春秋

荒畑 美貴子(あらはた みきこ)

特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com

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