9月は、1日の「防災の日」の日に始まります。
この「防災の日」は、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にちなんだもので、1960年(昭和35年)に制定されました。
また、例年8月31日~9月1日辺りは、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」とのいましめも込められています。
今から90年前の関東大震災について、確認してみましょう。
関東大震災が発生したのは、1923年9月1日午前11時58分のことでした。
発生時刻が昼食準備の時間帯だったために、いたるところから火の手が上がりました。
悪いことに、この日の関東地方は強い風が吹き荒れていました。
その強風にあおられて火災は燃え広がり、次々と上がる炎が激しい上昇気流を生じさせ、これが炎渦巻く巨大な竜巻「火災旋風」を発生させていきました。
この灼熱の竜巻は、東京で約110個、横浜で約30個が確認されたと言われ、これが多くの人命を奪いました。約10万5000人の犠牲者の9割近くが焼死とされています。
9月は多くの学校で、地震を想定した避難訓練が行われています。
揺れに対する一時避難、火災や倒壊等に対する二時避難と二段階で避難するのが、この避難訓練の特徴です。
ところで、2年半前の2011年3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東130kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。
地震の規模は、モーメントマグニチュード (Mw) 9.0という日本周辺における観測史上最大の地震で、甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しいと思います。
今年8月9日時点での被害を振り返ります。
震災による死者・行方不明者は18,539人、建築物の全壊・半壊は合わせて39万8,770戸が、公式に確認されています。
震災発生直後のピーク時においては、避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されています。
復興庁によると、今年8月12日時点の避難者等の数は28万9,611人だそうです。
また、日本政府は震災による直接的な被害額を16兆から25兆円と試算しています。
特筆すべき事として、水死による死者が90.64%を占めている点です。
これは、関東大震災と大きく異なります。
これからの避難訓練に生かさなければならないでしょう。
私は8月下旬に、東日本大震災後初めて東北に行きました。
これまでも、震災被害の実態を自分の目で見たいと思っていましたが、それは迷惑なことかもしれないと考え、募金をするぐらいで行くことは控えていました。
震災ボランティアに参加しようと思ったこともありましたが、かえって足手まといになると思い行けませんでした。
今回の東北は、仙台から石巻を経由して、南三陸町・気仙沼・陸前高田まで、限られた時間で回ってきました。
その一部を報告します。
仙台でのあるイベントに参加した後、石巻に向かいました。
石巻商店街では所々に被災の跡が見られましたが、復興に向けてイベントが行われるなど、復興の兆しが見られました。
有名になった石巻日日新聞の6枚の「壁新聞」も見ました。
当時の緊迫する様子が伝わってきました。
この様子は「6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録」として出版されたり、ドキュメンタリードラマ化されテレビ放映されましたが、やはり本物のもつ迫力は違いました。
続いて、南三陸町に移動しました。
ここでは、プレハブの復興商店街や被災した広大な土地を見ました。
復興商店街のお店の方から具体的に被災の状況を聞くと、胸が締め付けられる思いで、言葉が出ないぐらいでした。
復興商店街には夕方になると、毎日のようにプロ野球・楽天球団の二軍選手がバスに乗ってきて、復興支援のために飲食などをしているそうです。
ただ、震災当時に有名になった防災対策庁舎を見た印象は強烈でした。
一面が雑草に覆われる平地に、鉄骨がむき出しになったままの3階立て庁舎が忽然と現れるのですから。
その前には、たくさんの花などが手向けられていました。
翌日は、気仙沼から陸前高田に向かいました。
気仙沼は日本有数の漁港でしたが、港はある程度復旧したようですが、港町はまだまだの様子が見られました。
移動中、海岸沿いの小さな町が、みんなと言っていいほどなくなっているのが、驚きでした。
そして、陸前高田・・あの高田松原・・「奇跡の一本松」ですね。
ここばかりが注目されますが、ここは2万3000人余りが暮らしていた陸前高田市なのです。
同市は三陸沿岸のやや広い平野を中心とした地域に、たくさんの住宅や商店、工場などがあったはずです。
しかし、今はそれがまったくないのです。
驚愕の事実です。
陸前高田市では、市民会館や市民体育館などの指定避難所の多くが、ほぼ天井まで水没して避難者の大半が亡くなり、全市で1,800人弱の犠牲者が出たそうです。
今も市街地全域が壊滅的被害を受けた様子が、はっきりと分かります。
がれきの処理は進んでいましたが、多くの住宅跡だけが残り、所々に線香や花が置かれていました。
何と言っていいか、分かりませんでした。
ただはっきり言えることは、自分が見たものが事実だということです。
東日本大震災から2年半がたっても、復興にはほど遠いということが分かりました。
その中でも、被災した東北の方々は本当に辛抱強くがんばっていることを知ることができました。
メディアが伝えないから知らなくていいではなく、日本人として知らなくてはいけないことがたくさんあると思いました。
そして、そのことをこれからの日本を担う子どもたちと一緒に考え、行動していきたいと思いました。
大谷 雅昭(おおたに まさあき)
群馬県藤岡市立鬼石小学校 教諭
子どもと子どもたち、つまり個と集団を相乗効果で育てる独自の「まるごと教育」を進化させると共に、「教育の高速化運動」を推進しています。子ども自身が成長を実感し、自ら伸びていく様子もつれづれに綴っていきます。
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