大観光地の京都から少し離れている比叡山延暦寺に行きました。社会の教科書に載り、受験のためだけに「伝教大師最澄が開山した延暦寺」と覚えたものですが、一度見てみたいと思って出かけました。
延暦寺は3ケ所に分かれていて(延暦寺三塔)、その一つ、東塔には国宝になっている総本堂である根本中堂があります。第一駐車場から大講堂方面に歩いていくと、『一隅を照らそう』という大きな石碑(写真 左)が建っていました。「何だろう」「どういう意味だろう」と思いながら、大講堂(写真 中)を過ぎ、お目当ての根本中堂(写真 右)に行きました。ご本尊薬師如来をまつる宝前には、1200年間も灯り続けている「不滅の法灯」がおぼろげに輝いています。その前で、説法を聴きました。
当たり前と思われる「祖先や食べ物を大切にする」から、思っていてもなかなかできない「己を忘れ、他を考える大切さ」を説かれました。今も昔も変わらない「不易」な教えだと思いました。
しかし、30分ほどの説法でしたが、難解な言葉を極力使わず、誰でも分かるような語りでした。また、現代社会を象徴する携帯電話やいじめ問題も取り上げるなど、「流行」を取り入れた説法には感心し、誰もが納得するものでした。
「不滅の法灯」の前で、実に印象的で、猛暑を忘れるぐらいでした。
さて、気になるのは「一隅を照らす」です。帰宅後、調べてみると、天台宗を開いた伝教大師最澄の精神を現代に生かすために生まれた社会啓発運動だそうです。
さらに、調べてみると、最澄の有名な言葉に、『照一于隅 此則国宝』からきているそうです。いろいろな読み方があるようですが、「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国の宝なり」が読みやすいと思いました。
その意味は、「偉くならなくてもいいではないか、社会の片隅で自分にできる精一杯の努力をし続けたらよい。それが一番社会に貢献したことになるのだ。」といった感じだそうです。
ところが、最近、最澄の真筆を検証すると、『照千一隅 此則国宝』であり、『于』ではなくて『千』だとする解釈が通説になっているそうです。
『照千一隅 此則国宝』だとすると、その意味は、「どこにいても才能のある人はその才能で千里を照らす、そういう人こそ国の宝である(だから、為政者は才能のある人を見出し、抜擢しないといけない)」といった感じになるそうです。
『于』か『千』かでは、まったく違う意味になってしまいます。個人的には、『于』の『照于一隅 此則国宝』が、日本人としての価値観や考え方のよさにつながるものではないかと考えます。たとえ、それが誤訳・誤解であったとしても、それはそれでよいのではないでしょうか。
私自身、変な欲を出さずに、コツコツと努力を積み重ね、これからの国の宝になるべき子どもたちを育てることに全力を尽くすことが、私の使命だと改めて自覚しました。これが、比叡山延暦寺での私の学びです。
読書の秋。自分の体験を重ねながら、学びを深めていきたいと考えています。
大谷 雅昭(おおたに まさあき)
群馬県藤岡市立鬼石小学校 教諭
子どもと子どもたち、つまり個と集団を相乗効果で育てる独自の「まるごと教育」を進化させると共に、「教育の高速化運動」を推進しています。子ども自身が成長を実感し、自ら伸びていく様子もつれづれに綴っていきます。
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