どちらかと言えば「石橋を叩いて渡る」ような性格だった僕に、「火中の栗を拾う」ような”強さ”を与えてくれた出来事があります。
母の入院。そして、あっけない別れ・・・。
ある意味、僕の教師としてのあり方・姿勢の”原点”にもなっています。
今から30年前。大学を出て、念願の教師として勤め出して半年あまりが経った10月末。ようやく学校での仕事の内容がわかりかけてきた頃でした。突然、母が倒れ、入院することになりました。
ちょうど稲の刈り取りが終わり、農作業が一段落した時期だったこともあり、たぶんその過労だろうと家族の誰もが思っていました。普段からめったに病気などしない、元気な母でしたから、すぐによくなるだろうと、みんなそんなに深く気にも留めませんでした。
それまで、家の中で母というのは、いて当然の存在でしたから、別にその意味を深く考えたことなどありません。ところが、いざその存在が家の中からいなくなってみると、なかなか面倒なことが多いものです。食事の支度をはじめ、洗濯や掃除など、これまでは気にもしなかったことが(当然目につかないところで、それを母がやっていたわけですが)、次から次へと襲いかかってきます。
そんな生活も半年・・・。入院生活にピリオドを打ち、昭和58年の春に母は他界しました。
葬儀の日、当時担任をしていたクラスの生徒の代表が、遠方にもかかわらず千羽鶴を持って参列してくれました。4月に入学して、まだそんなに日も経っていないのに、担任の知らないところで鶴を折っていてくれたなんて、恥ずかしながら全く気づきませんでした。
「先生、ごめんなさい。私たちの願いが通じなくて・・・」 そう言いながら渡してくれた時、それまでこらえていた涙が止めどなくあふれてきました。たくさんの人がいる前で男が泣くなんて恥ずかしいことですが、その時ほど生徒の純粋さ、人を思う気持ちのありがたさを感じたことはありませんでした。
自分という存在だけでなく、その家族にまで思いを寄せてくれる生徒たち・・・。状況が状況だけに、そういった気持ちが必要以上に増幅されたのかもしれませんが、先生という立場の大きさ、生徒の前に立つ仕事の素晴らしさを感じさせられた出来事でした。それと同時に、自分も生徒に対して一生懸命ぶつかっていかないと申し訳ない・・・ということを改めて深く心に刻んだのも事実でした。
先生になって2度目の新学期が始まったばかり。 まだ初々しい頃のことです。
それ以後も、しばらく父と妹、そして僕の3人の生活が続きます。病院通いをしなくてもよくなったぶん、気分的にはゆとりが持てたような気もしますが、何かにつけて不便さを感じるのは相変わらずでした。妹にとっては、家族の中で唯一の同姓(女性)がいなくなり、僕以上に辛かったに違いありません。また、父にしても、かけがえのない人生の伴侶を失ったことは大きなことだったはずです。
そう思うと、僕が一番、気持ちの上ではゆとりがあったのかもしれません。周囲の人からは、「大変でしょう」「がんばってね」の励ましの声とともに、何かにつけて援助を受けました。でも、そう言われれば言われるほど、自分自身が強くなるというか、そんなこと言ってくれなくても大丈夫だから・・・という気持ちが起こってきました。
と同時に、もう普通でいい、いつまでも(母が死んだことを)特別なことだといって引きずりたくない・・・。そんな気持ちがどんどん大きくなっていきました。
今となっては、当時のことはすでに過去のものとして、余裕をもって語れますが、これも“母のおかげ”かもしれないと思う時があります。自分がここまで強くなれたのも、「死」という別れを通して母が僕に教えてくれた最大の教育であったという気がしています。
親離れというにはあまりにも突然で、辛いことだでしたが、だからこそ母親の思いを心に刻むことができたし、母親への依存心をいい形で払拭することができたと思います。もし、今も母が生きていたら、僕自身、もっと甘い人間になっていたに違いありません。
そういう意味では、母がこういう形で去っていってくれたことに感謝しています。

安居 長敏(やすい ながとし)
滋賀学園中学高等学校 校長・学校法人滋賀学園 理事・法人本部事務局 総合企画部長
私立高校で20年間教員を務めた後、コミュニティFMを2局設立、同時にパソコンサポート事業を起業。再び学校現場に戻り、21世紀型教育のモデルとなる実践をダイナミックに推進中。
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