2011.11.03
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「食育」と「偏食」と「感覚の特有性」

北海道札幌養護学校 教諭 青木 一真

 「食育」という言葉が教育現場で良く聞かれるようになってほんの5年程ですが、教育として食を育てる取り組みは、各地各校で取り組まれている物と思います。
 以前、小学校の食育の授業を見学させていただいたことがあります。低学年向けの授業で給食のメニューを「赤色の食物」「黄色の食物」「緑色の食物」に分け、バランス良く食べることを伝える内容でした。我が子の取っていた幼児用の通信教育教材の中にも同じ内容の物が扱われていることを思い出しました。

 特別支援学校においては、「日常生活の指導」として給食の時間もまた学習の機会として摂食の基本的な指導や食事のマナーといった指導が行われてきました。10年以上前の赴任先でも、当時の栄養士さんが子どもたちに「赤」「黄」「緑」に食物を分けてバランス良く選ぶというバイキング形式の給食を行ってくれましたが、支援なしで選ぶのは子ども達の発達段階としてなかなか難しかった記憶があります。揚げ物のコーナーからなかなか動かない子のそばでなんとか説得を試みつつ、離れている場所でトレーに大好きな納豆を10パック近くのせて大喜びしているクラスの子がいて苦笑といった感じだったでしょうか。もちろん食育として扱われるべき内容としては「赤」「黄」「緑」の他にも、食文化の理解や食材の生産から消費に至る道筋などの話もあるのでしょうが、普通学校で扱うような内容はそのままでは取り扱うのがなかなか難しいものがあります。

 先日、本校内で「食育委員会」というものが行われました。その中で日頃の給食時間での指導内容について情報交換をしました。多かった話題としては子どもたちの「偏食」についてです。行きすぎた偏食の指導に対する防止と小学部段階での指導が高等部段階でも影響するという事でした。僕自身も過去には「泣こうとも口に入れさせて味に慣れさせる」といった無理強いをするような偏食の矯正を指導として取り組むような話も耳にしました。太りやすい体質のお子さんもいますし、生活習慣病の懸念からなんとかしたいという思いからでしょうが、良い結果に結びつかない事もあるようです。出席者の方々が懸念されていた例の中からですが、嘔吐をもよおしながら出された物は「残さず」全て食べきれないと食事が終われない子、とにかく野菜は味わうことなく水で流し込む事を覚えた子など、「残さずきれいに食べる子」には育ったのでしょうが「指導」により欠けてしまったものもあるように見えます。

 食べられる物が増えるのなら食を楽しむという視点での選択肢も増えますので僕自身も成長に向けたアプローチは必要に思います。野菜に含まれるような苦みは食生活上の経験により育つ味覚という話を聞いたこともあります。ただ、自閉症を持つお子さんの中には特有な感覚から食べられない物もある子もいます。特定の物しか食べない=好き嫌いという基準で「わがまま」として接してしまうと過敏さや鈍感さを持つ苦しさを想像できないでしょう。味すら感じ方が違う可能性があるのですから。
 「偏食」を課題として挙げられているお子さんの中には、それ以外の大きな課題を抱えている場合もあるように思えます。大きな環境の変化、本人に合わない指導などがあった場合、食や睡眠に影響する例を多く見てきました。僕たちもイライラしている状況下では雑音など普段気にならない程度の物でも強く反応してしまうことがあります。子ども達にとって余裕のない状況の中で生活の根幹である食の部分でも大きなストレスを受けてしまうのならなおさらでしょう。もし、新しい味へのチャレンジをさせるのなら、本人に合わせた学習環境やコミュニケーション手段が整うなど学校生活が安定してからかなと僕自身は思います。食のみの課題を取り上げても食は生活の一部ですからトータルで見る視点も必要かなと思っています。つまりは、学校だけでは解決しない事もあります。家庭や施設の事情や方針もありますし、課題と感じている部分を共通化もしくは整理しないと難しいのは基本的なことですよね。

青木 一真(あおき かずま)

北海道札幌養護学校 教諭
前任校では特別支援教育コーディネーターを3年間務めさせていただきました。昨年度、異動と共に久しぶりの学級担任に戻り右往左往。良い教育を迷いつつ模索する日々です。

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