2011.07.28
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交流学習と障害理解(2)

北海道札幌養護学校 教諭 青木 一真

 学校は26日から夏休みに入り、日中の張りつめた神経を少し休ませる時間も持てますが、目の前の残務を片付ける日々が少し続きそうです。落ち着けば休みでも取って、我が家の息子達とゆっくり遊ぶ時間も持てるかなと思っています。学校は8月17日から新学期。お盆は学級設営の見直し、教材準備など仕事に集中するつもりです。

 さて、前回の続きを書かせてもらいます。
 「障害への理解」といっても何を解り、どのように感じ、どう行動に結びつけていくかを考えなければいけないと思います。障害名を知ることなのか、大変さを理解することなのか、違いを知ることなのか。気の毒に思うのか、隣人として受け入れるのか。そして何をするのか、できるのか。

 「障害を持つ人はかわいそうだから親切にしよう。」という構図は僕自身は多く目にしてきた物です。「親切にしなさい」と教えられ、その教えを忠実に守る子もいるでしょう。しかし僕自身、道徳的観念は知識として教えても定着しないと思いますし、そもそも「かわいそうな」存在かどうかは個々の捉えであるかなと思います。教える側が「かわいそう」と捉えているなら、自分の感じた物を標準として教えることもあるかもしれません。ただ「かわいそう」という感覚は多くの人が持つ物だとも思います。

 前任校時代、中学校から交流学習の事前学習をやってもらえないかという依頼を頂きました。半数の子が小学校時代から前任校との交流学習を経験していることもあり、「慣れている」との話でした。それまで交流学習で養護学校の子どもたちと積極的に関わる子もいればそうでない子もいるなと感じていました。はじめの年は、事前学習として養護学校にはどういう子がいるのか、どういう点に注意するのかを中心に1時間の話をし、その中で生徒にアンケートを採らせてもらいました。「障害」「障害者」に対するイメージについても尋ねました。無記名にし、心に浮かぶことをプラスでもマイナスでも正直にと伝えてから取り組んでもらったので割と素直に書いてもらえたと思います。一番多い回答は「かわいそう」でした。他は少数意見で「怖い」「汚い」と言ったマイナスの物や「頑張っている」といったプラスの物もありました。
 
 「かわいそう」という感情を持って接してもらうことは、本人達が違和感や疑問を持たなければ結果として本人達にとってメリットを受けられることもありますので、それはそれで良いのかなという気もします。他者を思いやる心の延長に「かわいそう」という気持ちもありますし。ただ「制度」にしろ「思い」にしろ「施す側」と「施される側」に分けてしまうことで乗り越えづらい物も生み出しているのではないかという気もしていました。施されるという世界にいる自分たちとは別の種類の他者として。1年目の交流でのアンケートの中にも「自分が障害者でなくて良かった」という内容の物がありました。障害を理解してもらうために疑似体験をしてもらうという方法もあります。車いす体験や目隠しをして歩いてもらうなど子どもたちに困難さを知ってもらうための物です。教育的効果も高い物と認識していますが「自分とは関係ない」「自分は普通で良かった」で終わるならもったいない事です。

 コーディネーターとして発達障害への理解を求めていた当時、目に見えづらい個々の「違い」を強調していましたが、自閉症的要素にしろ知的発達の程度にしろ「ある」「ない」ではなく連続線上にあるということも必ず添えるようにしていました。ただ、実際の相談現場では「この子は他の子とどこが違うのか」ということが重要で「違うから特別に支援する」根拠を求められていたように思います。教室内でも診断名をオープンにすれば他の子たちからもあの子は特別だからと納得できるという旨の話を何度かいただきました(その点に関しては僕は慎重でしたが)。特別支援教育が進んだ今は違うのかもしれませんが、黎明期の当時です。診断名が付いていない子には付くことを求めたり、診断が無ければ支援対象ではなかったり等。
 障害を持つ人に関して説明する時は大人にも子どもたちにも特別な部分を強調する方が教えやすいと思いましたし、違いを知ることも脳という見えない部分に障害を持つ子どもたちを説明する上では重要に思いました。しかし、何か違った視点という物もせっかくなので交流の事前学習ではありますが伝えてみたいなと考えました。

 ICFというWHOによる障害の分類についての考え方があり、厚生労働省により「国際生活機能分類-国際障害分類改訂版」として翻訳されています。これは障害を個人内の特性のみで捉えるのではなく周囲の環境との関係においても捉え直すというものです。少々乱暴ですが、障害とは「個人の特性のみならず周囲の環境によっても「活動」と「参加」に恒久的に制限を受けている状態」を指すものであるので、例えば「車いすに乗っている人が段差を乗り越えられない状況もスロープがあることで活動と参加への制限(障害)がなくなる。」「近視はそのままだと行動に制限があるが眼鏡やコンタクトレンズの発明により、現在は「活動」と「参加」に制限(障害)が無い状態である」「聴覚的短期記憶に弱さがあっても視覚的教材を用いて授業を行うことで学習という「活動」と「参加」への制限が緩和され、支援がなければむしろ「活動」と「参加」への制限が強まる」と言うような物です。                 

  1年目の事前学習では1コマの中で養護学校生徒の特徴やどのような学校なのかの説明で終わり、自分の中にも不全感が残りました。2年目に行った交流での事前学習の授業では、上記の考え方を加えた形での学習を組み立てようと思い、担当の先生に相談したところ快諾して頂けました。

 2回で終わろうと思っていましたが少々長くなってしまいました。事前学習の内容は次回また書かせて頂きます。

青木 一真(あおき かずま)

北海道札幌養護学校 教諭
前任校では特別支援教育コーディネーターを3年間務めさせていただきました。昨年度、異動と共に久しぶりの学級担任に戻り右往左往。良い教育を迷いつつ模索する日々です。

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