私は、高度成長期と言われる時代に育ちました。親の価値観は、「いい大学に入って、いい会社に就職できれば幸せになれる」といった学力一辺倒の指向で、それは全国的に同じ傾向にあったのだと思います。
思春期を迎えてからは親の期待に潰されそうになり、青春時代は受験戦争という言葉に嫌気がさしながらも、やりきれない日々を送りました。
ただ、中学生や高校生の頃は勉強さえしていれば親は何も言いませんでしたから、それを都合よく解釈して、手伝いすらしませんでした。
母が、「お前は庭の花が咲いても気がつかないね」とよく言っていましたが、そんな言葉に傷つくこともありませんでした。
今考えれば、親の価値観によって四季の移ろいにすら鈍感な娘ができてしまったのだろうと、言い返したくなります。
ですから、自分自身の育ちを振り返っても、家庭の教育力がどの程度のものであったのか、はなはだ疑問なのです。しかしそれでもなお、今の時代よりはましであったのかもしれないと思います。
というのは、先日行われた学校公開で、私は保護者の前で初めて子供たちを叱りました。友達に対する接し方があまりにも稚拙であったためです。
総合的な学習の時間に、移動教室に向けた調べ学習の発表を行ったのですが、その保護者が大勢参観されている中で、友人関係を阻害するような態度や発言があり、私は見るに見かねました。
これまでの教員生活の中では、子供たちは親の前ではいいところを見せたがるのが一般的で、友達を傷つけるような言動を露呈するようなことは考えられませんでした。それは、私自身が子供であった頃も同じで、背伸びしてでもいい格好をしていたものです。
私は叱ってはみたものの、5年生から今のクラスを担任して指導を続けてきたことが何であったのかと、情けなくなりました。
恥ずかしい思いをしたのは私自身だけではなく、保護者の方々も同様であったものと思います。そして、友達を大事にするということについて、本質的な話を子供たちとしていただけたものと期待しています。
さて、学校公開から数日後、私はある福祉施設を訪問させていただく機会に恵まれました。そこでのお話は、非常に勉強になりました。
中でも、子供たちのソーシャルスキルの低下については、私だけが感じていることではなくて、社会全体の大きな問題になっているのだという危機的な状況を、一層明確なものとしました。
私たちが学生時代には「新人類」と称され、当時から世代格差や日本人の変容について問題点が指摘されてきました。しかし、時代の流れは、好ましい方に向かったとは思えません。
人間としてごく当たり前に身につけていくだろうと思われがちな思いやりの心や態度、いじめをしていることへの後ろめたさ、あるいは良心といったものでさえ、日常的にスキルとして教えていく必要があるのではないかと感じます。
ところで、学校公開には、社会人となった私の娘が参観に訪れました。私の仕事ぶりを見てみたいという気持ちがあったようです。参観後、彼女が感想を寄せてくれました。
「当たり前のことを当たり前に教えているお母さんは、教員なんだなあと思いました。私たちに接する時の話し方と変わらなかったのは意外でした。これからもステキな先生でいてください」
当たり前のことを当たり前と思わずに、ひとつひとつ丁寧に教えていくことの大切さを、改めて考えさせられています。

荒畑 美貴子(あらはた みきこ)
特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com
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