3月28日、福島に住む母の介護をしてくれていた甥からの着信履歴に気づいたのは、夕方近くなってからでした。滅多に電話を寄越す相手ではないので、あわてて折り返しの電話を入れると、母が救急車で運ばれたという内容でした。
私は大学卒業後、東京に出てきましたが、母には子育てと仕事の両立のために、たくさんの支援をしてもらいました。そんな母が9年前に病をもってからは、心配の毎日でした。
さて、電話での話がただならぬ様子だったので、私は急遽福島に帰ることにしました。とはいえ、この震災のために交通事情が悪く、母の元に到着したのは夜中でした。
ぐっすり眠っているからと言われ、声をかけずにベッドを離れました。しかし、間もなく母は逝ってしまいました。あっけない最期でした。私の年度末の仕事が終わるのを、待っていたかのようでした。
新幹線が止まらなければ、東北自動車道の開通が早ければ、もっと元気な時に帰ってやれたのにと、残念でなりません。しかし、このような状況の中で、病院で看取ってやれたのは、幸せなことであったと思います。
さて、悲しみは尽きませんが、この度福島に帰り、よかったこともたくさんありました。震災の様子や原発の被害の状況を知ることができました。また、普段会えない方と会え、母の思い出話をしながら私自身の幼少時代を思い出すことができました。
そんな中で、一番心に残ったのは、菩提寺の住職との会話でした。彼とは、幼稚園・小学校の8年間を同じクラスで学びました。放課後になると、お寺の境内や本堂で、たくさんの友達とともに遊んだのを覚えています。
ですが、中学・高校と別々の学校に進み、さらに大学では別々の土地に住むことになったため、二人の距離は広がるばかりでした。今回、通夜振る舞いの席で話したのは、実に30数年ぶりでした。
私たちは小学校時代、とても古い校舎で2年間を過ごしました。2年生の校舎は古いばかりか、本校舎から離れた校庭の隅にあり、雨の日には給食を運ぶのに難儀しました。
3年生になった時、今も残る鉄筋コンクリート建ての新しい校舎に移りました。トイレの美しさに、ホテルを思わせるようだったのを覚えています。この校舎は、この震災で柱にひびが入り、取り壊しが決まったということです。
住職との話は多岐に渡りました。当時は、牛舎が昇降口の近くにあったこと、大平松と呼ばれた形のよい松の木が校庭の真ん中にあったこと、古い桜並木はお寺の参道の名残であったことなどです。
同級生の最近の様子を知ることができたのも嬉しかったです。
長く故郷を離れ、帰省しても友達と交流をもたずにいた私は、本当に久しぶりに小学校生活を思い出すことができました。いくつになっても、思い出は色褪せることがないのだと実感しました。
今、担任している子どもたちは、将来どんな思い出を心に描くのでしょうか。きっと大きな震災を経験したことは記憶に刻まれたと思います。これから楽しい思い出や友達との思い出も、たくさん残してやりたいと思います。
間もなく新学期のスタートです。子どもたちが、安心して学校生活を送れるように願っています。

荒畑 美貴子(あらはた みきこ)
特定非営利活動法人TISEC 理事
NPO法人を立ち上げ、若手教師の育成と、発達障害などを抱えている子どもたちの支援を行っています。http://www.tisec-yunagi.com
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