ヒト は ひと と出会って 人となる(恩師その3)
私の住む北海道南部地方(通称「道南」)もここ数日、氷雨や雪を幾度となく繰り返し、本格的な冬の到来を感じさせます。
さて、この場をお借りして書き綴ってきた「恩師シリーズ」ですが、今回が最終回となりそうです。今回は、むかし、もっと昔、36年前の恩師についてお話ししたいと思います。
その先生は、小学校1・2年生の時の女性の担任です。夕張市の中でも最も早く閉山が始まった鹿島大夕張地区の「鹿島東小学校」に入学した私(申し遅れましたが夕張出身です)を迎えてくれたのは、テル先生という30代の先生でした。閉山が始まっていたので、学級の人数も10数名だったことを記憶しています。
少人数であれ1年生ですから、それなりに大変だったと思いますが、不思議とテル先生の怒った顔が思い出せません。いつもニコニコで、旧い写真を見てみてもやはりニコニコでまさしく慈母のよう。写真だからだろうって?
一方、ガキ大将だった私は、いつも一番でなくては気がすまず、走るのも、テストを終えるのも、相撲でも、何でもはっちゃき(北海道弁・・・粉骨砕身というニュアンスでしょうか)になってやっていました。
そんなある日、私は授業中に尿意を催しました。「勉強中におしっこに行ってはいけません」というテル先生の教えを理解していたので、大好きな先生を困らせてはいけないと、必死で必死で我慢していました。ベル(今はチャイムですね)の時間は果てしなく遠い。我慢に我慢を重ねましたがもう限界。勇気?を振り絞り、席を立って先生のところへ行き
「先生、おしっこ・・・」
とやっとの思いで声を絞り出したら、いえ絞り出すや否やでしょう、その瞬間、
生温かいおしっこが、ズボンからだららららと垂れ落ち、床に水たまりを作ってしまいました。ガキ大将の面目は丸つぶれです。
すると、テル先生は、憐れんだ表情で
「あらあ、まあちゃん、そんなに我慢していたの? かわいそうに・・・」
と言ってなぐさめてくれたのです。さすがにちょっとは叱られるだろうと思いましたが、面目丸つぶれのガキ大将に追い打ちをかけるような言葉は、まったくありませんでした。
その後テル先生は、わたしの肌とパンツの間に、当時は高級だったであろう柔らかい(本当に当時はそう感じました)ちり紙をごばっと(北海道弁でTOO MANYの意味)挟みこみ、
「ほれ、こうしたらいいっしょ。でも、このまま勉強できないからうちに帰りなさい。」
と、おっしゃったのです。
そのテル先生の処置方法と早退させた判断は、今の保護者だったら何というかちょっと怖い気もします。
でも、一番大事なことは、先生がおもらしをした私の自尊心を傷つけずに優しくしてくれたことではないでしょうか。それによって子どもが心もパンツの中も温かくなり、元気に帰り道を辿ったのですから。失敗しちゃったけど、本当に爽やかな気持ちで歌を歌ったりトンボをつかまえたりしながら帰りました。
うちへ帰ったまあちゃんは、お母さんに恥ずかしくも、うれしそうに報告したことを覚えています。お母さんもニコニコして聞いてくれました。
当時の私の写真を見ると、真面目な顔で写っているのはほとんどなく、顔に絵の具をぬったくって白目をむいていたり、羽をむしったトンボを口にくわえていたり、恥ずかしいものばかりです。そんなガキ大将が伸び伸びと学校を楽しめた時代だったのかも知れません。
「思い出は美しすぎて」という歌がありました。古いから美化されてしまっているのかも知れません。でも確かなことは、やはり子どもにとって「先生」は大きな存在であり、時には心の支えとなることもあるということです。
管理職になって1年目。私の学校の1年生14名の担任は、とびきり若くて元気溌剌、野球大好きな、そして心優しい若者。この先生との思い出が、14名の1年生の心に大きな何かとなって残ることを願いつつ、日々の奮闘を見守っていきたいと思います。
(テル先生、健在ならば70才くらい? 再会が叶えられたら・・・
写真は、たてわり班での廊下清掃活動「おらいもタイム」)
私の住む北海道南部地方(通称「道南」)もここ数日、氷雨や雪を幾度となく繰り返し、本格的な冬の到来を感じさせます。
さて、この場をお借りして書き綴ってきた「恩師シリーズ」ですが、今回が最終回となりそうです。今回は、むかし、もっと昔、36年前の恩師についてお話ししたいと思います。
その先生は、小学校1・2年生の時の女性の担任です。夕張市の中でも最も早く閉山が始まった鹿島大夕張地区の「鹿島東小学校」に入学した私(申し遅れましたが夕張出身です)を迎えてくれたのは、テル先生という30代の先生でした。閉山が始まっていたので、学級の人数も10数名だったことを記憶しています。
少人数であれ1年生ですから、それなりに大変だったと思いますが、不思議とテル先生の怒った顔が思い出せません。いつもニコニコで、旧い写真を見てみてもやはりニコニコでまさしく慈母のよう。写真だからだろうって?
一方、ガキ大将だった私は、いつも一番でなくては気がすまず、走るのも、テストを終えるのも、相撲でも、何でもはっちゃき(北海道弁・・・粉骨砕身というニュアンスでしょうか)になってやっていました。
そんなある日、私は授業中に尿意を催しました。「勉強中におしっこに行ってはいけません」というテル先生の教えを理解していたので、大好きな先生を困らせてはいけないと、必死で必死で我慢していました。ベル(今はチャイムですね)の時間は果てしなく遠い。我慢に我慢を重ねましたがもう限界。勇気?を振り絞り、席を立って先生のところへ行き
「先生、おしっこ・・・」
とやっとの思いで声を絞り出したら、いえ絞り出すや否やでしょう、その瞬間、
生温かいおしっこが、ズボンからだららららと垂れ落ち、床に水たまりを作ってしまいました。ガキ大将の面目は丸つぶれです。
すると、テル先生は、憐れんだ表情で
「あらあ、まあちゃん、そんなに我慢していたの? かわいそうに・・・」
と言ってなぐさめてくれたのです。さすがにちょっとは叱られるだろうと思いましたが、面目丸つぶれのガキ大将に追い打ちをかけるような言葉は、まったくありませんでした。
その後テル先生は、わたしの肌とパンツの間に、当時は高級だったであろう柔らかい(本当に当時はそう感じました)ちり紙をごばっと(北海道弁でTOO MANYの意味)挟みこみ、
「ほれ、こうしたらいいっしょ。でも、このまま勉強できないからうちに帰りなさい。」
と、おっしゃったのです。
そのテル先生の処置方法と早退させた判断は、今の保護者だったら何というかちょっと怖い気もします。
でも、一番大事なことは、先生がおもらしをした私の自尊心を傷つけずに優しくしてくれたことではないでしょうか。それによって子どもが心もパンツの中も温かくなり、元気に帰り道を辿ったのですから。失敗しちゃったけど、本当に爽やかな気持ちで歌を歌ったりトンボをつかまえたりしながら帰りました。
うちへ帰ったまあちゃんは、お母さんに恥ずかしくも、うれしそうに報告したことを覚えています。お母さんもニコニコして聞いてくれました。
当時の私の写真を見ると、真面目な顔で写っているのはほとんどなく、顔に絵の具をぬったくって白目をむいていたり、羽をむしったトンボを口にくわえていたり、恥ずかしいものばかりです。そんなガキ大将が伸び伸びと学校を楽しめた時代だったのかも知れません。
「思い出は美しすぎて」という歌がありました。古いから美化されてしまっているのかも知れません。でも確かなことは、やはり子どもにとって「先生」は大きな存在であり、時には心の支えとなることもあるということです。
管理職になって1年目。私の学校の1年生14名の担任は、とびきり若くて元気溌剌、野球大好きな、そして心優しい若者。この先生との思い出が、14名の1年生の心に大きな何かとなって残ることを願いつつ、日々の奮闘を見守っていきたいと思います。
(テル先生、健在ならば70才くらい? 再会が叶えられたら・・・
写真は、たてわり班での廊下清掃活動「おらいもタイム」)
久慈 学(くじ まなぶ)
厚沢部町立厚沢部小学校 教頭
北海道で小学校教員、今年は教頭職三年目。ニューデリー日本人学校での経験を生かし、片田舎から世界を、世界から片田舎を見つめつつ発信したいと思います。
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