2010.10.26
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「先生、カメ吉が死にました」

厚沢部町立厚沢部小学校 教頭 久慈 学

 9月1日、夜7時頃学校で仕事をしていると、目の前の電話が鳴った。
「厚沢部小学校ですか。久慈先生いますか?」
「はい、私ですけれど。」
「あ、久慈先生、あのー、 カメ吉が死にました。多分、教室が3階で、かなり暑かったからだと思います。」
 去年も一昨年も校舎は違えど、3階の窓際でずーっと飼っていた。カメは日光浴が大切なので、窓際に水槽を置くことは間違っていなかったのだけれど・・・。今年の北海道は暑かった。

 さて、このカメ吉とはいかなる存在だったのか? 
 遡れば、我が久慈家に2004年頃に、もらわれてきたミドリガメ(ミシシッピーアカミミガメ)である。他のミドリガメは餌を食べて日に日に大きく順調に育っていったのだが、このカメ吉(当時は名前はなかった)だけは、一向に大きくならなかった。何かの病気かもしれないとは思ったが、とりあえず餌も食べているので、普通に育てていた。
 ところが2005年、私が(もちろん家族も)ニューデリー日本人学校に派遣されることになったのだ。そのミドリガメの処遇に困ってしまったところを、同僚の理科教諭が、理科室で育ててくれることになったのだ。これでまず一安心。
 
 果たして3年後、インドのキビシー生活に耐え?!帰国したのだが、赴任校は原籍校であった。出勤すると、ある先生が
「久慈先生、カメ吉、元気ですよ。相変わらず大きくなってないけれど。」
「ん? ん? カメ吉?」
「そうですよ。久慈先生が置いてったやつです。今年の5年生が2年生の時から、教室でずーっと大事に育ててたんですよ。カメ吉という名前もつけて。休み時間は散歩させたり、遊んだりして大切に・・・。カメ吉係なんて、学級の係の中でも大人気なんですよ!」
「え?あの発育不全(失礼!)のカメ、まだ元気なんですか。うわー、ちょっと感動しちゃうなあ。うれしいなあ。」

 そしてその時担任したのが、何とカメ吉といっしょに成長してきた?5年生25人だったのだ。それから2年間、カメ吉と26人(6年生で転入生が1人加わる)は、今年の3月まで昔々の飼い主である私と教室をともにしてきたのだ。
 高学年になっても、係の名前はやはり「カメ吉係」。カメ吉人気は衰えず、放課後水槽も甲羅もピカピカに磨きあげられていた。
 いよいよお別れの、卒業の3月である。子どもたちにカメ吉の進路を相談する。すると学級会でカメ吉の進路が話し合われ・・・るほどの時間は必要なかった!
 あっという間に満場一致で
「中学校に連れて行く」
ことに決まったのだ。私は、とりあえず中学校の了解をとることを前提に承諾。
 カメ吉は、卒業式の体育館で子どもたちの隣に座り、いっしょに卒業した。

 そして4月、子どもたち(生徒たちと呼ぼう)とカメ吉は同じ中学校へ、私は隣町の学校へ管理職として転勤。要するにこの教え子たちが最後の担任となってしまった。
 
 話は一番初めに戻る。今年の夏は本当に暑かった。電話をくれたT君の言うとおり、やはり暑すぎたのかもしれない。でも、少なくとも7年間も子どもたちに大切に育ててもらったカメ吉は幸せなカメに違いない。
 電話の最後にT君は、
「先生、だから俺たち、学校の裏にお墓作って、みんなで行って、I美(お寺の娘さん)がお経あげておいたから。」
 数日後、私が見に行くと、花が供えられていた。
 
 「命の尊さ」を伝えることが重要なことはわかっている。この子たちにも、そうした道徳の授業を何度となく行ってきた。しかし、今回の「カメ吉」の死を心に刻んでくれたことが何より私にとって嬉しかった。

久慈 学(くじ まなぶ)

厚沢部町立厚沢部小学校 教頭
北海道で小学校教員、今年は教頭職三年目。ニューデリー日本人学校での経験を生かし、片田舎から世界を、世界から片田舎を見つめつつ発信したいと思います。

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