2010.10.01
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食卓の記憶 (2)

埼玉県朝霞市立朝霞第十小学校 教諭 北川 誠

第八期のレギュラー執筆者として正式に復帰(?)しました。
今日から10月ですが今回はイレギュラー時代の前回(8月28日公開)のつづきの話になります。ご容赦ください。
今年8月夏休み中のある夜、東京渋谷でこの「つれづれ日誌」のコーナーに執筆していらっしゃる先生方との4回目のオフ会がありました。
その時に私が持ち込んだ薄い本の話で、以前このコーナーでも食育に関する記事を発表している東京の小学校に勤める栄養教諭、宮鍋和子先生らと意見交換をさせていただきました。
 その本とは、岩村 暢子 著『家族の勝手でしょ! 写真274枚で見る食卓の喜劇』(新潮社)。
一見すると写真集のようでもあるが写っているのはただの食事・食卓のスナップ。それもどれもごく普通の家庭のものです。
しかしその内容はとても興味深く、ある意味衝撃的でさえあります。著者は普通の主婦を選んでアンケート調査をして、日常の食卓を1週間毎日、写真に撮ってもらいます。もちろん調査した世代が狭すぎるし、家庭の食卓のみで完結しているといった突っ込みもできるのですが読んでみると食卓という日常が、この十年たらずの間でいかに変化してきたのかを垣間見ることができます。
その項目をタイトルだけ羅列してもお菓子で朝食、味噌汁回し飲み、夫と妻の昼飯格差、赤ちゃんの一人食べ、家庭のネットカフェ化などまるで週刊誌の車内広告のようです。
 例えば、一つのお椀で子どもたちがみそ汁を回し飲みする。食器が売れなくなっているというデータ―には「信じられない!」と叫ぶか、「他人事じゃない……」とため息をつくのかはまた個人個人それぞれでしょう。
前回の記事にも書きましたが、食卓というのは、家族という社会の映し鏡のようなもの。日常生活の中で食事をするということは当然の行為で、その当然の行為がどうなっているか、ふつうは考えることもないし、特に他との比較を調べないのではないでしょうか。
ところが実際に子どもはその中で育つわけですから、つまり子どもにとっての当然が少しづつではありますが変化してしまうことではないでしょうか。
そしてその子が成長し大人になって新しい社会を作っていくのです。
例えば子どものころから食器を使わない食事をしていけば、いずれ食器を使わない食事が当然になっていくのではないのでしょうか?
社会はこうして変わっていくのだとしたら、そしてその変動が子どもたちの心や生活について影響を与えていくことをしみじみ思い考えさせられた内容でありました。

学校の風景4 学校の掲示物です。
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北川 誠(きたがわ まこと)

埼玉県朝霞市立朝霞第十小学校 教諭
「駄洒落」を立派な日本の文化・言葉の見立てと考え、子どもたちからは「先生 寒~い」と言われてもめげず連発してます。モットーは「花には水を人にはユーモアを」。

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