小学校の国語の授業では、教科書の巻頭や学期始めの教材として「詩」を読んだり、作ったりする学習があります。元々、中学校の理科教師であった私は、詩を教材文とした授業は苦手にしていました。
たとえば、教科書の巻頭詩などは、1回読んだか読まないかで、本文教材に入っていったこともありました。また、教科書の教材としての詩も、音読させてリズムのよさを感じ取らせたつもりになって、「さぁ、みんなも詩を作ってみよう」などという乱暴な授業もしてしまいました。
さて、「音読暗唱は脳を活性化させる」と言われていますが、今の私は、授業の中で音読をかなり積極的に取り入れています。特に、国語では教科書以外の詩や名文、古典や俳句などを、授業の始めに音読・暗唱をさせています。
音読暗唱用の詩として、特にリズムがよいために提示する詩に北原白秋の「落葉松」があります。全文を以下に示します。
落 葉 松
北原白秋(「水墨集」より)
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
この詩は読むと、何となく描かれている情景はわかるのですが、ずっと「なぜ、落葉松なんだろうか?」と思っていました。また、その「落葉松」という表記も気になっていました。
調べてみると、北原白秋の名作「落葉松」の詩は、大正10年8月、長野県軽井沢町にある星野温泉において催された自由教育夏季講習会の講師として訪れた白秋が、この時の印象をもとに作ったそうです。星野温泉入口には、北原白秋文学碑(写真)も建てられています。
この詩が納められている「水墨集」には、次の序文があります。
落葉松の幽かなる、その風のこまかにさひしく物あはれなる、たた心より心へと傳ふへし。また知らむ その風はそのささやきは、また我か心の心のささやきなるを、讀者よ これらは聲に出して歌ふへききはのものにあらす、たた韻を韻とし、匂を匂とせよ。
確かに、「なるほど」と思いましたが、何か今一つすっきりしないものがありました。
そうして何年もたった11月初めに、長野県の八ヶ岳・麦草峠を越えてドライブした時のことです。山全体が金色に輝いている様子を目にしました。これは何かと思い、車を止めて見ることにしました。
それは、秋の日に輝きを増す紅葉した落葉松だったのです。正に、しみじみと見ていると、すうっと風が通り、金色のとがった葉がハラハラと落ちるのです。落葉松林の中には、気のせいか、何となく細い道が伸びているようにも思えました。この場所からは浅間山は見えませんでしたが、晩秋の八ヶ岳の山々が眺められるこの場所は、何となくもの哀しさを感じられました。
そこで、脳裏に浮かんだのが、白秋の「落葉松」です。そして、同時に白秋の気持ちを感じたようにも感じられました。白秋の文学碑を見るだけでなく、実際に金色に輝く落葉松を見て、落葉松林の中を歩くことで、白秋の言わんとすることを体感できたように思いました。
理科教師として、感じ考え実感する理科を目指して、教科書に記されたものはもちろん、その背景にある自然や現象を調べたり、見たりしてきました。今は小学校教師ですので、これからは詩に描かれた世界も訪ねていこうと思っています。こんな形の教材研究で、すべての授業において実感を伴った授業を創っていきたいと思っています。
たとえば、教科書の巻頭詩などは、1回読んだか読まないかで、本文教材に入っていったこともありました。また、教科書の教材としての詩も、音読させてリズムのよさを感じ取らせたつもりになって、「さぁ、みんなも詩を作ってみよう」などという乱暴な授業もしてしまいました。
さて、「音読暗唱は脳を活性化させる」と言われていますが、今の私は、授業の中で音読をかなり積極的に取り入れています。特に、国語では教科書以外の詩や名文、古典や俳句などを、授業の始めに音読・暗唱をさせています。
音読暗唱用の詩として、特にリズムがよいために提示する詩に北原白秋の「落葉松」があります。全文を以下に示します。
落 葉 松
北原白秋(「水墨集」より)
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
この詩は読むと、何となく描かれている情景はわかるのですが、ずっと「なぜ、落葉松なんだろうか?」と思っていました。また、その「落葉松」という表記も気になっていました。
調べてみると、北原白秋の名作「落葉松」の詩は、大正10年8月、長野県軽井沢町にある星野温泉において催された自由教育夏季講習会の講師として訪れた白秋が、この時の印象をもとに作ったそうです。星野温泉入口には、北原白秋文学碑(写真)も建てられています。
この詩が納められている「水墨集」には、次の序文があります。
落葉松の幽かなる、その風のこまかにさひしく物あはれなる、たた心より心へと傳ふへし。また知らむ その風はそのささやきは、また我か心の心のささやきなるを、讀者よ これらは聲に出して歌ふへききはのものにあらす、たた韻を韻とし、匂を匂とせよ。
確かに、「なるほど」と思いましたが、何か今一つすっきりしないものがありました。
そうして何年もたった11月初めに、長野県の八ヶ岳・麦草峠を越えてドライブした時のことです。山全体が金色に輝いている様子を目にしました。これは何かと思い、車を止めて見ることにしました。
それは、秋の日に輝きを増す紅葉した落葉松だったのです。正に、しみじみと見ていると、すうっと風が通り、金色のとがった葉がハラハラと落ちるのです。落葉松林の中には、気のせいか、何となく細い道が伸びているようにも思えました。この場所からは浅間山は見えませんでしたが、晩秋の八ヶ岳の山々が眺められるこの場所は、何となくもの哀しさを感じられました。
そこで、脳裏に浮かんだのが、白秋の「落葉松」です。そして、同時に白秋の気持ちを感じたようにも感じられました。白秋の文学碑を見るだけでなく、実際に金色に輝く落葉松を見て、落葉松林の中を歩くことで、白秋の言わんとすることを体感できたように思いました。
理科教師として、感じ考え実感する理科を目指して、教科書に記されたものはもちろん、その背景にある自然や現象を調べたり、見たりしてきました。今は小学校教師ですので、これからは詩に描かれた世界も訪ねていこうと思っています。こんな形の教材研究で、すべての授業において実感を伴った授業を創っていきたいと思っています。
大谷 雅昭(おおたに まさあき)
群馬県藤岡市立鬼石小学校 教諭
子どもと子どもたち、つまり個と集団を相乗効果で育てる独自の「まるごと教育」を進化させると共に、「教育の高速化運動」を推進しています。子ども自身が成長を実感し、自ら伸びていく様子もつれづれに綴っていきます。
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