GWも終盤を迎え、どこか気怠さが残るこの時期・・・。ちょっと堅い話で申し訳ないが、みなさんからのご意見をいただければと思い、綴らせてもらうことにする。
今年度、中高一貫(中学)に異動するあたり、先生方と確認しあったことがある。それは、指導に《ぶれない軸》を持とうということで、子どもたちに接するときの、教師側の目線(行動基準)として、「これが自立につながることかどうか」を常に意識しようということ。
しかし最近、どうも『自立』という言葉の意味そのものが曖昧なのか、人によってとらえ方(イメージ)が違うんじゃないかと思えてならない。
ある先生はこう言う・・・
自立って、誰の力も借りないで生きていけるということだから、周りの人と関わり合うってこととは結びつかないんじゃないの?
確かに、『経済的自立』ってことを考えれば納得できない話でもないが、自立=他からの支援を必要としない=他と関わり合うことが少ない、という図式はちょっと違うと思う。
内田樹氏は自身のブログ(2005年1月14日)で、『自立』についてこう述べている。
☆ひとことで言えば、それは「自分がどのような依存関係に含まれているかを俯瞰できる知性を持つ」ということである。奇妙に聞こえるかも知れないが、「自立」を基礎づけるのは、「自立」という個別的な事実を宣言することではなく、「依存」という包括的な関係を意識することなのである。
☆生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
この解釈だけを取り上げて議論するつもりはないが、生きている限り周囲との関わり合いの関係を断ち切ることができないという、当たり前の事実を抜きにして、自立は存在しないことは明白である。むしろ、他者との関係性を必要としないと考えている人がいたら、その人こそ自立という言葉からはほど遠い位置にいると言えるだろう。
一方、新任二年目で、今年から中1の担任になった先生がクラスブログに、こんなことを書いている。
☆前回、「生徒の自立」という方針はブレさせないと書きましたが、そもそも自立って、なんなんでしょう? 僕が考える自立は、「自分の置かれた立場にあわせて、自由かつ前向きに歩いていけること」とでも言いましょうか、自分だけで立つのが自立ではなく、他者との関係の中で自分の主体性を発揮できる、折り合いをつけながら前に進んでいける、それが自立だと思っています。
☆自己主張がしっかりとできる子は一見、「自立」したように見えることがあります。でも、その主張の中身をよくよく聞いてみると、一方的な要求であったり、自分の能力を客観的に見られていないものだったりすることがあります。そういう子は、周りが彼の要求を飲んでくれる場合は非常に幸せに生きていくことができますが、ほとんどの場合は周りからは疎まれてしまいますよね。それは「自立」じゃない。大人でも、そんな「お嬢様」してる人、いますもんね。
☆今、感じるのは、生徒に対する過剰なサービスが原因になるのでは?ということ。教員側が彼らの要求になんでも応えてあげたり、生徒間のトラブルも彼らを置き去りにして大人の手で解決してしまったり・・・。彼らは日々何も感じることもなく、考えることもなく、温室育ちでぬくぬくと育っていくわけです。そう考えると恐ろしい。一見善意に見える行動が、実は彼らを「自立」から遠ざけ、「わがまま」にしていってしまうのではないか、そんなふうに思います。
う~ん、なかなか奥が深い。
子どもたちの自立をめざすために、教師はどう関わっていけばよいのか・・・。一度、みんなで議論しあう場を持ちたいと思っている。
今年度、中高一貫(中学)に異動するあたり、先生方と確認しあったことがある。それは、指導に《ぶれない軸》を持とうということで、子どもたちに接するときの、教師側の目線(行動基準)として、「これが自立につながることかどうか」を常に意識しようということ。
しかし最近、どうも『自立』という言葉の意味そのものが曖昧なのか、人によってとらえ方(イメージ)が違うんじゃないかと思えてならない。
ある先生はこう言う・・・
自立って、誰の力も借りないで生きていけるということだから、周りの人と関わり合うってこととは結びつかないんじゃないの?
確かに、『経済的自立』ってことを考えれば納得できない話でもないが、自立=他からの支援を必要としない=他と関わり合うことが少ない、という図式はちょっと違うと思う。
内田樹氏は自身のブログ(2005年1月14日)で、『自立』についてこう述べている。
☆ひとことで言えば、それは「自分がどのような依存関係に含まれているかを俯瞰できる知性を持つ」ということである。奇妙に聞こえるかも知れないが、「自立」を基礎づけるのは、「自立」という個別的な事実を宣言することではなく、「依存」という包括的な関係を意識することなのである。
☆生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
この解釈だけを取り上げて議論するつもりはないが、生きている限り周囲との関わり合いの関係を断ち切ることができないという、当たり前の事実を抜きにして、自立は存在しないことは明白である。むしろ、他者との関係性を必要としないと考えている人がいたら、その人こそ自立という言葉からはほど遠い位置にいると言えるだろう。
一方、新任二年目で、今年から中1の担任になった先生がクラスブログに、こんなことを書いている。
☆前回、「生徒の自立」という方針はブレさせないと書きましたが、そもそも自立って、なんなんでしょう? 僕が考える自立は、「自分の置かれた立場にあわせて、自由かつ前向きに歩いていけること」とでも言いましょうか、自分だけで立つのが自立ではなく、他者との関係の中で自分の主体性を発揮できる、折り合いをつけながら前に進んでいける、それが自立だと思っています。
☆自己主張がしっかりとできる子は一見、「自立」したように見えることがあります。でも、その主張の中身をよくよく聞いてみると、一方的な要求であったり、自分の能力を客観的に見られていないものだったりすることがあります。そういう子は、周りが彼の要求を飲んでくれる場合は非常に幸せに生きていくことができますが、ほとんどの場合は周りからは疎まれてしまいますよね。それは「自立」じゃない。大人でも、そんな「お嬢様」してる人、いますもんね。
☆今、感じるのは、生徒に対する過剰なサービスが原因になるのでは?ということ。教員側が彼らの要求になんでも応えてあげたり、生徒間のトラブルも彼らを置き去りにして大人の手で解決してしまったり・・・。彼らは日々何も感じることもなく、考えることもなく、温室育ちでぬくぬくと育っていくわけです。そう考えると恐ろしい。一見善意に見える行動が、実は彼らを「自立」から遠ざけ、「わがまま」にしていってしまうのではないか、そんなふうに思います。
う~ん、なかなか奥が深い。
子どもたちの自立をめざすために、教師はどう関わっていけばよいのか・・・。一度、みんなで議論しあう場を持ちたいと思っている。
安居 長敏(やすい ながとし)
滋賀学園中学高等学校 校長・学校法人滋賀学園 理事・法人本部事務局 総合企画部長
私立高校で20年間教員を務めた後、コミュニティFMを2局設立、同時にパソコンサポート事業を起業。再び学校現場に戻り、21世紀型教育のモデルとなる実践をダイナミックに推進中。
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