「教師の使命は何か?」と問われて、明快な答えを一言で言える教師は私の身近にはいません。こうした事実は、由々しきことなのでしょうか。学校現場における多忙感は、ここ数年、一層増してきています。それは、なぜでしょうか。なかなか客観的に分析する機会もなく、何となく忙しくなったと思いながら日々の校務をこなしてきましたが、ちょっと考えてみました。
多忙感の原因の一つと考えられるのは、マスコミによる教師や学校バッシングの影響や、不況により公務員への風当たりが強くなったことと関連があるように思います。具体的に、マスコミ的話題を提供しやすい教師は、過剰と思われるまでの防御態勢をつくらなければならなくなったことが一つ目です。次に、企業論理の導入により人事評価や業績評価などが取り入れられ、そのための事務作業量が膨大になったということです。さらに、学校の体質の一つであるポジティブリスト主義が、本来の業務に支障をきたすほどにもなってきているということも、忙しさを増幅していると考えられます。
つまり、社会の仕組みが崩れ、家庭や地域の連携が薄れる中で、学校だけが保守的な体質の上に、すべてのニーズを無条件に受け入れることを続けた結果が、教師の多忙感となっているのです。
このような教育を囲む現状の中で、「教師の使命」などを議論している時間などないと思います。日々、多様な子ども達に向かい、ノルマや様々な要望・苦情処理に全力を尽くす教師は、本当にくたくたになっています。1週間の授業日は5日ですが、一日の平均労働時間は11時間を超え(新聞発表)、週末出勤は当たり前です。様々な理由で、病休となる教師の数も年々増えてきています。「教師の使命」は、身も心もボロボロになることなのでしょうか・・。
教師も人の子であり、人の親でもあります。身も心もボロボロになっていいわけはありません。では、どうしたらよいのでしょうか。しかし、こうした複雑な現状があるわけですから、そう簡単には解決策は見つかりません。
ここ数年、私が身近な人たちに提案していることがあります。それは、「楽して、得取れ」ということです。つまり、ネガティブリスト主義でいこうということを提案しているのです。具体的には、「教師の使命」達成を常に意識して、そのために手段を選び実践し、余分なものは切り捨てるという手法です。
たとえば、1回きりの発表のために何十時間も費やし、当日は多くの参観者を感動させる仕上がりとなり、よい評価も得た〇〇発表会や△△音楽会があったとします。その時は、教師も児童も「よかった」という十分な満足感を得ることができます。しかし、後で「あの時は、あんなにがんばったのに、どうしてダメなんだろうか。」という教師の嘆きもよく聞くことがあります。これは、「時間をかけて苦労したのに、何も残らない・成長しない」ことの典型例です。
格好はよくなくても、子ども達が本当の力を付ける教育を、今こそすべきではないでしょうか。高度なテクニックを用いて、見た目のよい授業を目指すのではなく、どの子も目を輝かせて授業を受け、みんなで学び合い高め合う授業・学級づくりを創造することが、「教師の使命」ではないでしょうか。
私は、「教師の使命」は「子どもの可能性を伸ばすこと」として、子ども一人一人の全体像をみとり、伸ばしていく方法を常に模索しています。
年度始めの現在、各学校では、学校・学年・学級の指導方針等を策定していることと思います。ポジティブリスト主義で、教師も子ども達も息苦しくならないように心がけ、元気のある教師と子ども達がいる学校であってほしいと思っています。「教師の使命」は、一つなのですから。
多忙感の原因の一つと考えられるのは、マスコミによる教師や学校バッシングの影響や、不況により公務員への風当たりが強くなったことと関連があるように思います。具体的に、マスコミ的話題を提供しやすい教師は、過剰と思われるまでの防御態勢をつくらなければならなくなったことが一つ目です。次に、企業論理の導入により人事評価や業績評価などが取り入れられ、そのための事務作業量が膨大になったということです。さらに、学校の体質の一つであるポジティブリスト主義が、本来の業務に支障をきたすほどにもなってきているということも、忙しさを増幅していると考えられます。
つまり、社会の仕組みが崩れ、家庭や地域の連携が薄れる中で、学校だけが保守的な体質の上に、すべてのニーズを無条件に受け入れることを続けた結果が、教師の多忙感となっているのです。
このような教育を囲む現状の中で、「教師の使命」などを議論している時間などないと思います。日々、多様な子ども達に向かい、ノルマや様々な要望・苦情処理に全力を尽くす教師は、本当にくたくたになっています。1週間の授業日は5日ですが、一日の平均労働時間は11時間を超え(新聞発表)、週末出勤は当たり前です。様々な理由で、病休となる教師の数も年々増えてきています。「教師の使命」は、身も心もボロボロになることなのでしょうか・・。
教師も人の子であり、人の親でもあります。身も心もボロボロになっていいわけはありません。では、どうしたらよいのでしょうか。しかし、こうした複雑な現状があるわけですから、そう簡単には解決策は見つかりません。
ここ数年、私が身近な人たちに提案していることがあります。それは、「楽して、得取れ」ということです。つまり、ネガティブリスト主義でいこうということを提案しているのです。具体的には、「教師の使命」達成を常に意識して、そのために手段を選び実践し、余分なものは切り捨てるという手法です。
たとえば、1回きりの発表のために何十時間も費やし、当日は多くの参観者を感動させる仕上がりとなり、よい評価も得た〇〇発表会や△△音楽会があったとします。その時は、教師も児童も「よかった」という十分な満足感を得ることができます。しかし、後で「あの時は、あんなにがんばったのに、どうしてダメなんだろうか。」という教師の嘆きもよく聞くことがあります。これは、「時間をかけて苦労したのに、何も残らない・成長しない」ことの典型例です。
格好はよくなくても、子ども達が本当の力を付ける教育を、今こそすべきではないでしょうか。高度なテクニックを用いて、見た目のよい授業を目指すのではなく、どの子も目を輝かせて授業を受け、みんなで学び合い高め合う授業・学級づくりを創造することが、「教師の使命」ではないでしょうか。
私は、「教師の使命」は「子どもの可能性を伸ばすこと」として、子ども一人一人の全体像をみとり、伸ばしていく方法を常に模索しています。
年度始めの現在、各学校では、学校・学年・学級の指導方針等を策定していることと思います。ポジティブリスト主義で、教師も子ども達も息苦しくならないように心がけ、元気のある教師と子ども達がいる学校であってほしいと思っています。「教師の使命」は、一つなのですから。
大谷 雅昭(おおたに まさあき)
群馬県藤岡市立鬼石小学校 教諭
子どもと子どもたち、つまり個と集団を相乗効果で育てる独自の「まるごと教育」を進化させると共に、「教育の高速化運動」を推進しています。子ども自身が成長を実感し、自ら伸びていく様子もつれづれに綴っていきます。
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