私は小学校5年生から卓球を始め、中学、高校、大学とすべて卓球部に所属していました。大学の時には高校卓球部のコーチや、卓球専門店が主宰する小学生の卓球チームのトレーナーを務めました。この経験の中で、世界を狙うような一流選手がどんな環境でどんな生活をしているのか、また、全国大会で優勝しようとする小学生選手がどんな環境で育ち、どんな毎日を送っているのかを身近に知ることができました。そして、それはほんの一部の人間の特殊な世界であることもよくわかっていました。
教師となり、25歳から40歳までの15年間、小学生の卓球のクラブチームの監督として活動しました。このクラブは私が主宰する完全な個人クラブであり、学校と直接の関係はありません。(勤務学校を主にすると、転勤の時に問題が起こるからです。)そして、このクラブを作るとき、「小学校生活と全国大会出場の両立」を目標としました。「多少の犠牲をはらってもいいから、全国大会を目指す」のではなく、「学校生活をきちんと送りながらどこまでできるか」を目指したわけです。
初めのうちは練習は週に1回、土曜日だけ。しかし、これではいくらなんでも他のクラブチームには到底及びませんでした。2年目から練習は週に3回。しかし、1回の練習時間は90分、夜の8時以降の練習はしないことを基本としました。協力者も増え、5年目には県の3位となり、東日本大会に出場できるようになりました。今、考えると、この頃までがチームも結束し、自分でも楽しく、またクラブの目標を守ることができていた時代でした。
その後、チームはどんどん強くなり、9年目には女子チームが県で優勝し、全国ホープス大会に初出場。10年目には同じく女子チームが全国ホープス大会でペスト16に入りました。この頃が全盛であり、個人戦では、私のクラブの子が県のベスト8の中で7人を占めました。しかし、この頃からクラブ内で問題が起こってきたのです。
全国大会は、チームで争う全国ホープス大会と、個人戦である全日本選手権があります。私自身は、個人戦より、みんなで協力しあうチーム戦を重視していたのですが、子どもや親たちは個人戦である全日本選手権に出場することに価値を感じていました。当時の全日本選手権の埼玉代表枠は各種目(小学生は、2年以下・4年以下・6年以下の3種目)ごとに3人。つまり、代表になるためのライバルはクラブ内にいるわけです。先ず、親同士の関係がギクシャクしだし、子どもたちのチームワークも崩れていきました。初めのうちは、
「うちの子は練習に参加させてもらうだけで十分です。」
と言っていた親が、やがて
「ここまでやって全日本選手権に出れなければ意味がないじゃないですか。」
とまで言うようになっていきました。まわりからの雑音も多くなり、お互いにかくれてどこかに練習に行くようにもなりました。当然のように夏休みや休みの日にある学校行事より、それらを優先するようなりました。チームは私の意思とはどんどん離れていったのです。
15年間に、全国ホープス大会に男女合わせて、のべ5回出場。全日本選手権には男女合わせて、のべ38人が埼玉県代表になりました。また、全盛時の選手達の何人かは、卓球の強い私立中学へ進学し、その後も全国大会で活躍しました。しかし私は、私の意思とは離れてしまったこのクラブを閉じました。
その時の子どもたちや親の行動は当然だったのだと思います。基本的に個人種目である卓球は自分以外はすべてがライバルであるし、よい成績を残そうとすればその他のことをある程度犠牲にしなければならないことも仕方のないことです。クラブを作ったときに立てた目標は、そもそも無理のあることだったのでしょう。小学校の教師としてできる事にこだわった私が意固地になっていた面も多々ありました。
あの時、私がどうすればベストだったのか、今もわかりません。ただ、もう少し上手な終え方ができなかったかと今でも思い出すのです。
教師となり、25歳から40歳までの15年間、小学生の卓球のクラブチームの監督として活動しました。このクラブは私が主宰する完全な個人クラブであり、学校と直接の関係はありません。(勤務学校を主にすると、転勤の時に問題が起こるからです。)そして、このクラブを作るとき、「小学校生活と全国大会出場の両立」を目標としました。「多少の犠牲をはらってもいいから、全国大会を目指す」のではなく、「学校生活をきちんと送りながらどこまでできるか」を目指したわけです。
初めのうちは練習は週に1回、土曜日だけ。しかし、これではいくらなんでも他のクラブチームには到底及びませんでした。2年目から練習は週に3回。しかし、1回の練習時間は90分、夜の8時以降の練習はしないことを基本としました。協力者も増え、5年目には県の3位となり、東日本大会に出場できるようになりました。今、考えると、この頃までがチームも結束し、自分でも楽しく、またクラブの目標を守ることができていた時代でした。
その後、チームはどんどん強くなり、9年目には女子チームが県で優勝し、全国ホープス大会に初出場。10年目には同じく女子チームが全国ホープス大会でペスト16に入りました。この頃が全盛であり、個人戦では、私のクラブの子が県のベスト8の中で7人を占めました。しかし、この頃からクラブ内で問題が起こってきたのです。
全国大会は、チームで争う全国ホープス大会と、個人戦である全日本選手権があります。私自身は、個人戦より、みんなで協力しあうチーム戦を重視していたのですが、子どもや親たちは個人戦である全日本選手権に出場することに価値を感じていました。当時の全日本選手権の埼玉代表枠は各種目(小学生は、2年以下・4年以下・6年以下の3種目)ごとに3人。つまり、代表になるためのライバルはクラブ内にいるわけです。先ず、親同士の関係がギクシャクしだし、子どもたちのチームワークも崩れていきました。初めのうちは、
「うちの子は練習に参加させてもらうだけで十分です。」
と言っていた親が、やがて
「ここまでやって全日本選手権に出れなければ意味がないじゃないですか。」
とまで言うようになっていきました。まわりからの雑音も多くなり、お互いにかくれてどこかに練習に行くようにもなりました。当然のように夏休みや休みの日にある学校行事より、それらを優先するようなりました。チームは私の意思とはどんどん離れていったのです。
15年間に、全国ホープス大会に男女合わせて、のべ5回出場。全日本選手権には男女合わせて、のべ38人が埼玉県代表になりました。また、全盛時の選手達の何人かは、卓球の強い私立中学へ進学し、その後も全国大会で活躍しました。しかし私は、私の意思とは離れてしまったこのクラブを閉じました。
その時の子どもたちや親の行動は当然だったのだと思います。基本的に個人種目である卓球は自分以外はすべてがライバルであるし、よい成績を残そうとすればその他のことをある程度犠牲にしなければならないことも仕方のないことです。クラブを作ったときに立てた目標は、そもそも無理のあることだったのでしょう。小学校の教師としてできる事にこだわった私が意固地になっていた面も多々ありました。
あの時、私がどうすればベストだったのか、今もわかりません。ただ、もう少し上手な終え方ができなかったかと今でも思い出すのです。
高柳 新(たかやなぎ はじめ)
欧風カレー専門店『アルパッシェ』オーナー
四半世紀の小学校教師経験と小学生卓球チーム指導者として全国大会の出場経験。そして現在は、学校を外から見ることのできる立場を生かし、現場の先生方を応援したいですね。
同じテーマの執筆者
-
埼玉県朝霞市立朝霞第十小学校 教諭
-
京都外国語大学 非常勤講師
-
株式会社アットマーク・ラーニング内 コーチングアカデミー
-
大学院生
-
横浜市立みなと総合高等学校
-
株式会社内田洋行 教育総合研究所
-
宮崎県えびの市立加久藤中学校 教諭
-
軽井沢SOBO 代表
-
横浜市立中田中学校 英語科 教諭
-
カリタス小学校 教諭
-
厚沢部町立厚沢部小学校 教頭
-
北海道札幌養護学校 教諭
-
神戸市立兵庫商業高等学校 教諭 特別支援Co
-
横浜市立永田台小学校 校長 ESD横浜代表
ご意見・ご要望、お待ちしています!
この記事に対する皆様のご意見、ご要望をお寄せください。今後の記事制作の参考にさせていただきます。(なお個別・個人的なご質問・ご相談等に関してはお受けいたしかねます。)