2021.04.24
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『旅立つ息子へ』 自閉症の息子とその父親の新たなる旅立ちを描く

映画は時代を映し出す鏡。時々の社会問題や教育課題がリアルに描かれた映画を観ると、思わず考え込み、共感し、胸を打たれてしまいます。ここでは、そうした上質で旬な映画をピックアップし、作品のテーマに迫っていきます。今回は『旅立つ息子へ』と『ノマドランド』『砕け散るところを見せてあげる』の3本をご紹介します。

子離れしない親が観るべき1本

親離れしない子どもが増えてきたが、子離れしない親も今ドキは増えていると聞いた。

本来、親は子どもを一人前の大人にまで育てあげるのが仕事であろう。未熟な生命として生まれてきた子を、いかにひとりで社会の中で生きられるようにするか。それが親の役目であるはずだ。

それは野性の動物たちを見れば明らかだ。キツネでもライオンでも、自分たちの子が育ったと確信すれば、どんなに子どもたちが甘えてこようとも、つき放す。時には追い立て、怒りを露わにして自分のもとから去るように促す。これが自然の摂理である。

この映画で出てくる親子も、親離れ子離れができない状態でいる。それは息子ウリが自閉症スペクトラムだからだ。父親のアハロンは、そんな息子の世話をするため、売れっ子のグラフィックデザイナーでありながら、その職を捨てて、ウリと共に田舎に引きこもり、彼の世話に明け暮れている。

実はアハロンは妻タマラとは別居中だ。劇中ではタマラとなぜ別居したのか、完全に明らかにはされていない。けれどもその別居の要因のひとつにウリのことが組み込まれていることは明らか。なぜなら自分で世話をしようとするアハロンに対し、タマラはウリを全寮制の特別支援施設へ入れるべきだと強固に話を進めるからだ。この考え方の違いが夫婦の亀裂の原因のひとつにもなったのであろう。

しかも、タマラのやり方はかなり強引だ。施設に空きができたからと、アハロンに相談することもなく、さっさと施設への入所を決め、施設の職員をアハロンの家に連れてきてウリと面談させる。

それでも反対し続けるアハロンの動きを封じるように、アハロンに定収入がないことを理由に彼を養育不適合と見なさせ、裁判所命令でウリを強引に施設に入れようとする。

この時点で妻タマラの描き方は、まるで悪役のようだ。

もちろんタマラは息子ウリをとても愛している。しかしウリを心底理解しているのかといえば、そうとも断定できない。というのは彼女はその時その時でウリが何を求めているかわかってないからだ。彼が家で父親が茹でた星の形をしたパスタを食べたいと思っていても、そんなものいつだって食べられるからいいじゃない、と流してしまう。「✕✕をしたくない」というウリに、「✕✕しなさい」と言いがちなのがタマラなのだ。

またアハロンは帰ろうとするタマラに「ウリにさよならを言え」と言うが、タマラは言わなかったりする。アハロンへの抵抗意識からくる行動のようにも思えるが、ウリに言っても理解しないのだから仕方ないと、無駄と決めつけているようにも見える。だからこそ悪役のようにも見えてしまうのだが、映画を観ているとその感覚が変わってくる。

自分の人生をウリの世話でゴマかしてきたアハロン

とにもかくにもこうしたタマラの仕掛けた策のせいで、ついにウリは施設に入ることになる。施設まで連れていくのは、アハロンの役目だ。電車に乗り、目的地へと向かうが、途中でウリが施設に連れていかれることを理解し、乗換駅のホームで手がつけられないほどわめき、泣き始めてしまう。途方にくれたアハロンは、「なぜ来ないの?」と電話してきたタマラに説明するが、彼女が「いいから連れてこい」とわめくばかりなのでうんざりし、ついに施設にも連れていかず自宅にも戻らない放浪の旅に出ると決めてしまう。

そしてお金がないにも関わらず、アハロンは時に嘘をつき、時に知り合いや弟を頼ったりしながら旅を続けていく。

そのあたりから、観ている側も「おや?」となってくるのだ。ウリを大切にする気持ちはわかる。しかし、そんなアハロンにも、タマラとは違う意味で大きな欠点があるのではないか、と。

旅先に登場する人たちの言葉から見えてくるアハロンの過去。それはアハロンが何かうまくいかないと逃げてしまう癖があるということだ。

ウリと田舎でふたり暮らしを始める時も、仕事で自分の思惑を勝手に変更されたことがあり、それが気に入らず仕事から逃げたのではないかという疑念が沸き起こってくるのだ。

となると、もちろんウリを施設に入れるのは反対だという気持ちが根源にあるのだろうが、本当はウリのことを思ってではなく、ウリと一生暮らすという思惑を取り上げられたことへの「逃げ」が彼を逃避行に走らせているのではないか。そんな考えが頭をよぎってしまうのである。

タマラは自分が考えたウリの未来・理想を押し付けようとするあまりウリを見失い、アハロンはウリを愛おしく思うあまりに子離れできず、さらにはウリを言い訳に自分の人生をゴマかしている。どちらも本当にウリに必要なことが何なのか、実際のところ見えていない……というのが観ている側に伝わってくる。

つまりどちらかが「悪い」というわけでもないのだ。いや、どちらも「悪い」とも言えるかもしれない。

そこに気づいていくのが今回の物語なのだ。

いつまでも親は子どもを守れるわけではない

実は私の周りにも自閉症の息子を抱える友人がいる。その友人夫婦をすごいと思ったのは、どんどん自立できるように夫婦で仕向けていたことだ。実験的に息子だけ置いて、二泊三日の旅行に行ったりもしていた。

友人夫婦は自分たちが先に死ぬことを理解している。だからこそ、息子が自分たちがいなくなっても生きていけるよう、強くはばたける翼をさずけることに専念してきた。おかげで息子クンは成人し、今やちゃんと働いている。社会人としてしっかり自立している。おそらくいつか息子クンとは別居するのではないか……とも思っている。

アハロンに足りないのは、自分が先に死んでしまうのが自然の摂理だという「現実の認識」だ。いつまでも自分で子どもを守ることはできない。たとえ子どもが傷つこうとも、自分で立ち上がれる術を身につけさせなければならない。そして逃げていたって、踏み出さなければ何も解決しないということだ。

この映画は息子が一人前になるための一歩を踏み出す旅の話だが、同時に大人である両親たちが自分たちの過ちと欠点を見つめ直す旅にもなっている。

その旅の先に見つけた答えとは。

それは映画を見てのお楽しみだ。

『ノマドランド』

ゴールデングローブ賞を獲得、アカデミー賞主要6部門ノミネートの話題作

キャンピングカーで生きる人達がいる

『ノマドランド』は簡単に言ってしまうと、キャンピングカーで暮らす人達を、ドキュメントタッチで追った作品だ。

これまでもキャンピングカーが印象的に出てきた作品はたくさんある。例えば『アバウト・シュミット』(03年)。ジャック・ニコルソン演じる66歳の男が、妻に先立たれ、婚約者が気に入らずに娘と大ゲンカする中、定年退職を機にキャンピングカーの旅にでるというもの。いわゆる初老の男が見せる自分探しの旅だ。

06年公開の『RV』は、バラバラになった家族をひとつにまとめようとした父親が、キャンピングカーで家族旅行に出るというストーリー。奔走する父親が巻き起こす騒動を綴ったコメディ・ドラマだ。

どうやらキャンピングカーに乗る人には、何か抱えた人物が似合うようで、日本映画の『あなたへ』(12年)でも、妻を失った高倉健演じる男性が、散骨のために故郷までキャンピングカーで向かう展開になっている。

ノマドは気ままな自由暮らしと言えるのか?

実は『ノマドランド』の主人公ファーンも、夫に先立たれた上にリーマンショックの余波で住み慣れた家も失ってしまうことになった。

彼女の暮らしっぷりはこんな感じだ。時にはAmazonの商品倉庫で働き、時にはオートキャンプ場で雑用、清掃をすることもあれば、農家で収穫の手伝いをすることもある。要はすべて短期労働。当面の生活費を稼いではまたキャンピングカーで違う土地へと移動するというルーティンだ。

ファーンも最初は家がなくなってやむなくキャンピングカー生活を選択しただけなのかもしれない。この映画では、そんな放浪者たちを“ノマド”と称しているが、実際多くのノマドたちはそういった切実な事情を抱えて、キャンピングカー暮らしをスタートさせた人がほとんどだからだ。

でもその後は、彼らは自らその生き方を選択している。

様々な束縛から解放されて生きるということ

自分の家や土地、会社などに縛られずに生きるということは、管理社会である現代の中で、様々な束縛から解放されるという意味を持つ。その日暮らしで何の保証もないけれど、働きたくなければ働かなくてもいいし、寝ていたい時は寝ていられる生活は、とても人間らしい生活のように私には感じられた。

でも自分はファーンのような生活をしたいか!?  と問われると、正直答えには窮してしまう。

放浪の生活は魅力的ではあるが、未来に対する漠然とした不安を感じるからだ。かといって、今の世の中で安定したものなんぞはなく、何をしていても不安ばかりがつきまとうのもわかっているのだが。

実際、この映画を観るといろんなことを考えさせられる。

管理社会というシステムの中で、ストレスを感じながら生きているのが幸せなのか。

孤独と表裏一体ではあるけれど、本当に自分の生きたいように、自由に、生きる方が幸せなのか。

生きるとはなんなのだろうか?

ファーンと共に、私達がこの映画で目にするのは果てしなく続く道だ。先が見えない道。それはまるでファーンの人生のみならず、すべての人の人生を暗示しているようである。

けれどもその通り道には美しい自然があり、天を見上げれば星空があり、時には思いがけない出会いをももたらしてくれる。

とてつもない寂寥感を漂わせる光景もあれば、驚くほどの温かみを感じる光景もある。

とても大切にしていた皿を他人に割られてしまうことだってある。

そういったことすべてを、ファーンはわかった上で、受け止めた上で、いくつもある分岐点の中から自分の生き方を選択していくのだ。

生まれるのもひとり。死ぬのもひとり。人間が常に孤独であることは頭の中ではわかっている。けれども感情的な余韻をあえて残さない撮影の仕方で、フィクションとノンフィクションの境目を貫いていくこの映画は、そのファーンの孤独を自分のものとして感じさせてくれる。

そして本来なら「孤独」であるはずの人生を豊かにするのも、または寂しいものにするのも、その人それぞれの選択が決めていくということを、この映画はじんわりと胸に染み込ませていくのだ。

自分にとって本当に幸せなのは、どう生きることなのか。何を大切にすることなのか。

様々な価値観があふれて、混沌としているこの時代、その幸せの基準は人それぞれだ。

だが劇中であるノマドの女性が亡くなった時、本当にたくさんの人が彼女を偲んでいる姿を見て、実は管理社会のまっただ中にいる私達よりもよっぽど豊かなコミュニケーションの中で生きているのではないかと思った。

「生きる」とは何か。この映画を観て、改めて問うてみたい。

Movie Data

『旅立つ息子へ』

監督:ニル・ベルグマン 脚本:ダナ・イディシス 
出演:シャイ・アビビ、ノアム・インベル、スマダル・ボルフマンほか

配給:ロングライド

TOHOシネマズシャンテほか全国公開

(C)2020 Spiro Films LTD

公式HP

https://longride.jp/musukoe/
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『ノマドランド』
監督・製作・脚色・編集:クロエ・ジャオ 
原作:ジェシカ・ブルーダー「ノマド: 漂流する高齢労働者たち」
出演:フランシス・マクドーマンド、デヴィッド・ストラザーンほか

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン

(C)2021 20th Century Studios. All rights reserved.
公式HP
https://searchlightpictures.jp/movie/nomadland.html

Story

『旅立つ息子へ』
イスラエルの田舎町に住む父アハロンと息子ウリ。だが別居中の妻タマラは自閉症スペクトラムを抱える息子の将来を心配し、全寮制の支援施設への入所を決めてしまう。入所の日、ウリは大好きな父との別れにパニックを起こしてしまう。そこでアハロンはアメリカでウリと住むことを決意。こうして2人の無謀ともいえる逃避行が始まっていくが…。
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『ノマドランド』
企業の破たんと共に、長年住み慣れたネバタ州の住居も失ってしまったファーン。キャンピングカーに亡き夫との思い出を詰め込んで、〈現代のノマド=遊牧民〉として、季節労働の現場を渡り歩くようになった。その日、その日を懸命に乗り越えながら、往く先々で出会うノマドたちとの心の交流と共に、誇りを持った彼女の自由な旅は続いていく──。

文:横森文

※当記事のすべてのコンテンツ(文・画像等)の無断使用を禁じます。

子どもに見せたいオススメ映画

『砕け散るところを見せてあげる』

いじめや暴力に真摯に向き合った問題作

舞台となるのは「いじめ」が起きている高校

正直、最後まで観ていくと、なかなかの衝撃作である。人によってはゾッとして寒気を感じるシーンがあるかもしれない。それでもこの作品を高校生に特に観てほしいと思ったのは、この映画が「暴力」や「いじめ」にとても真摯に向き合っているからだ。

竹宮ゆゆこのベストセラー小説を実写映画化した本作の舞台となるのはとある高校。

高校3年生の濱田清澄(中川大志)は、遅刻して後から参加した学校の体育館での朝礼で、1年生の女子・蔵本玻璃(石井杏奈)がいじめられていることに気づく。校長先生の話が続く中、玻璃に次々とぶつけられる紙くず。時には上履きが飛んできたりも。いてもたってもいられずに彼女を助ける清澄。だが他人から助けられることに慣れてない玻璃は、そんな清澄を拒絶してしまう。しかし、どんなに彼女が拒絶しようとも気にせずに、マイペースで玻璃に接する清澄の行動のおかげで、ついに清澄に心を開いていくのだった。

面白いのは、学年によって異なるいじめに対する反応だ。高校3年生たちは完全に1年生に対して否定的だ。「何やってんの、1年生。信じらんない」と言い切る3年生たち。ある3年生などは「いじめ」を「ダサい」とも称する。

対して1年生は、全くもって聞く耳をもたない。逆に関わってくる清澄のことを「ヒマな先輩」と小馬鹿にする者もいる。そこまで言い切ってしまうのは、実は彼らも玻璃をどう扱ってよいかわからないせい。それは玻璃が何をしても会話すらまともにせず、ずっと暖簾に腕押しのような状態が続いているからだ。

団体生活の中で異端となることとは…

特に目立つことをあまり良しとしない風潮のある日本では、周囲と違う人はすぐにいじめの対象になりがち。それは子どもだけではなく、大人の世界でもそうだと思う。団体生活の中では団体の中での基準を満たさないと、すぐに「何、あの人」と眉をひそめてしまいがちだ。異端な者はどこかで区別される。子どもの頃のように直接的ないじめはしなくても、陰で悪口を言ったりする。こういうことは、大人も職場などで経験しているはずだ。

つまり1年生にとっても異端は区別の対象になっている。理解できない者は怖いのだ。それは若ければ若いほど、露骨な反応として出てくる。1年生にとっては同じ教室で過ごす玻璃の存在は脅威でもあり、自分たちと違う反応を示す彼女を排除しようとしてしまう。

もちろん彼女が真っ当に会話をしないのは、ある秘密を抱えているからだ(その秘密が衝撃的なのだが)。彼女のことをほっとけず、頑張ってコミュニケーションをとり続けた彼は、その秘密を知り、より彼女を守るヒーローになろうと努める。

それにしてもなぜここまで清澄が献身的に接するのか?

それは彼もいじめられた経験があるからなのだ。

つまり今でこそ「いじめなんてダサい」と言い切る同じ学年のメンバーだって、時と状況が変われば、いじめる側に回る可能性があるということを示してもいる。

でも正しいことをすることで、少しでも状況は変化することを、この映画はキチンと描き出す。

実際、清澄の行動は一部の1年生の気持ちを変えていく。もしかしたらちゃんと向き合ってみれば「いい子なのでは?」という思いを、1年生にもたらしたのだ。

実際に本気で接してみれば、玻璃はちょっと変わったところもあるけれど、よく喋るし面白く楽しい子であるからだ。

そしてその結果、玻璃にも友人が登場する。

つまりこの映画を観て感じるのは、「いじめ」は団体生活という中でなくすのは難しいけれど、行動を起こすことが実はものすごく大事だということ。そしてその行動は、時に世代をも超えて影響を与えていくということ。

言い切っていけば、世の中も少しは変わっていくのではないだろうか。

「いじめはダサいよ」と。

そんなことを話し合えるキッカケになりそうな作品だ。

監督・脚本・編集:SABU 原作:竹宮ゆゆこ

出演:中川大志、石井杏奈、井之脇海、清原果耶、松井愛莉、北村匠海、矢田亜希子、木野花、原田知世、堤真一ほか

配給;イオンエンターテイメント

PG-12

(C)2020 映画「砕け散るところを見せてあげる」製作委員会
公式HP
https://kudakechiru.jp/

文:横森文  ※写真・文の無断使用を禁じます。

横森 文(よこもり あや)

映画ライター&役者

中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。

2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。

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