2011.12.13
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105年ぶりに里帰りした写真から

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長 野村 泰介

創立20周年記念  上代淑に贈られた写真

先日、1枚の写真が校長室に届けられました。写真は今から105年前の1906年、山陽学園の前身、山陽高等女学校創立20周年を記念して全校生徒、教職員、その他学校創立功労者の集合写真が撮影されたものです。撮影場所は、学校の敷地から500メートルほど離れた河川敷でないかと推察されます。写真には当時の生徒の中に混じり、当時教頭であった上代淑(注1)、学校創立に力を尽くした石黒涵一郎(注2)、などの姿も見られます。

 

この写真は、ある日系三世のRさんがアメリカから持って来られたものです。Rさんの祖母は山陽高等女学校の卒業生。およそ40年前に亡くなった自分の祖母の遺品の写真からそのことを知り、祖母のルーツを探すべく、はるばるアメリカから来られました。

 

Rさんの祖母は同窓会の記録によると1907年の卒業とわかりました。Rさんの祖母は山陽高等女学校卒業後、アメリカへ渡り、現地の日系人と結婚します。アメリカでの生活は苦労の連続であったそうですが、山陽高女で受けた教育は彼女の人生の指針となったそうです。Rさんは祖母について、「活発であったが、利己的な部分がひとつもない人格者」と評し、「日本の山陽の上代淑先生の教えによるところが大きい」と言われました。

 

その後、学校の資料室を調べたところ、Rさんの祖母が60年前に上代淑に送ったと見られる、家族の集合写真が見つかりました。写真の中にはまだ少年であった、Rさんもしっかり写っています。

 

2011年は学校創立125周年の節目の年でした。このような時期に創立20周年ゆかりの品や明治の卒業生のお孫さんと出会うことができ、あらためて伝統の大きさを確認することができました。

 

確かな伝統という土台がしっかりしているからこそ新しいことへ挑戦していくことができます。「125年の老舗」という看板をアドバンテージとして次の時代を切り開いていこうと、昔の写真を眺めながら考えた年末です。

 

注1 上代淑(かじろよし)1889年、18歳で山陽英和女学校の教師となる。一時期、アメリカのマウントホリヨーク大学に留学したが、再び山陽の教壇に戻り、1908年校長に就任。以来51年間学園を牽引し続け、1959年逝去。 

 

注2 石黒涵一郎(いしぐろかんいちろう)明治から大正時代にかけての弁護士、政治家。自由民権運動を推進し、山陽自由党を結成。1898年立憲政友会所属の衆議院議員。

写真左、山陽高等女学校創立20周年記念の全校生徒教職員写真(1906年撮影)

写真右、上代淑校長に贈られたRさんの祖母の家族(1949年撮影)

野村 泰介(のむら たいすけ)

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長
今年創立125年の女子校の広報を担当しています。岡山市内唯一の女子校として、その特色をアピールできればと思います。

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