2010.12.20
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65年ぶりに見た写真から「捕虜観」を考える 後編

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長 野村 泰介

前回の続きです。カウラ事件の生き残りの方、Tさんからたびたび聞いていた帰国の際に撮られた写真の話。ひょんなことからその写真を発見し、Tさんに見せることにしました。

11月下旬、私と生徒数人は、岡山県瀬戸内市の島、長島にある国立療養所邑久光明園を訪ねました。ハンセン病療養施設である長島はとてもひっそりとしています。あらかじめ予約をとっておいた施設の面会所でTさんとお会いします。Tさんは今年90歳。足が悪く、外の移動は電動車いすを使用しますが、屋内では歩くことができます。昨年、心臓の調子が悪く、短期間入院されましたが、今では健康を取り戻し、とてもお元気な様子です。

私たちは早速、写真を見せました。しばらく黙って写真を見つめるTさん。そして、

「これは、間違いなく、私です。」とはっきり答えられました。撮影から65年経ち、はじめて見る捕虜時代の写真です。

そして、「このような写真を今頃見ることになるとは・・ただただ驚くばかりです。」とつぶやかれました。私たちが想像していた、「懐かしい写真を見ることが出来て嬉しい」という反応はありませんでした。

なぜかということをしばらく考えましたが、Tさんの反応はとても自然なことだったのです。Tさんは捕虜であったことを、65年経った今でも「恥」に思っています。たびたび、「脱走事件の際、自分もいっしょに死ねば良かった。」と話されています。ご自身が捕虜であったことは、戦後45年近く、誰にも話すことはなかったそうです。Tさんというお名前も偽名です。本名ではとても捕虜であったということを話すことはできないとおっしゃいます。

そのようなTさんのお気持ちを考えると、単純に「昔の写真に出会えて懐かしい!」という、現代の私たちの考えをそのままあてはめた思考の浅さに、恥かしくなりました。

そういえば、Tさん、このようなことも言われていました。「私が終戦後、オーストラリアから日本に帰ったのは、日本が戦争に負けたからです。戦争に負けたら、日本人全員、敵国の捕虜みたいなもの。だから帰れたのです。もし、日本が戦争に勝っていたら絶対に帰国できません。捕虜になったという罪で処刑されてしまうかもしれませんから・・・。」それほど、捕虜になるということは、当時の人にとって生涯消えることのない重荷を背負うことだったのです。

65年の時を経て見た1枚の写真から、あらためて、第二次世界大戦当時の日本人の「捕虜観」を再確認した出来事でした。

野村 泰介(のむら たいすけ)

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長
今年創立125年の女子校の広報を担当しています。岡山市内唯一の女子校として、その特色をアピールできればと思います。

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