2008.12.03
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萩の塚物語(前編)

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長 野村 泰介

私の勤務する学校のすぐ近くに操山(みさおやま)という山があります。山はなだらかで登山道もきれいに整備されており、紅葉のこの時期のハイキングにはぴったりです。また、操山には大小200余りの古墳があり、操山古墳群と呼ばれ、考古学ファンの間にも人気のある山です。

操山古墳群の中に「萩の塚古墳」と名づけられた古墳があります。古墳時代後期の円墳で、正式名称「操山9号古墳」。大きな横穴式石室が口を開けている操山古墳群随一の古墳です。しかし、この古墳、少し変わっており、石室の入り口には大きく白ペンキで「火の用心」と書かれており、石室内部には煤けたデスマスクが安置されています。操山の公式ガイドにはそれらについて一切触れられていませんが、見ればみるほど不気味なロケーション。この萩の塚をめぐるオモテの歴史には載らない秘密を生徒と共に探ってみました。

操山には朝、まだ暗いうちから山に登り、萩の塚古墳の前で抹茶を飲みながら語り合うグループがあります。このグループは自らのことを「萩の塚衆」と呼んでいます。
生徒と地域の歴史を勉強している過程で、学校から徒歩5分ほどの近所に、この萩の塚衆の一人であるご老人が住んでいることがわかりました。さっそく生徒を連れてその方のお宅を訪問し、色々とお話をきくことができました。

この方は現在、86歳。現在も週2日、萩の塚に登っています。早朝茶会に参加してからかれこれ60年近くになるそうです。この萩の塚での早朝茶会が始まったのは今から70年ほど前。創始者は「聖人弁護士」と言われた家本為一(いえもとためいち)です。

家本弁護士は生涯にわたり、お金がなく弁護士を雇うことのできない人の弁護に力をつくしたことで知られています。そのような弁護活動のかたわら、早朝から「萩の塚」に登ってお茶を飲むという行動をはじめました。「萩の塚」という名前も、石室の周囲に萩が生い茂っていたことから彼が名づけたそうです。やがて、家本弁護士の人柄にひかれるように、早朝から萩の塚に登る人たちが増え、いつしか彼らを「萩の塚衆」と呼ぶようになりました。

70年の歴史の中で萩の塚衆は1000名を超え、その中には版画家の棟方志功、陶芸家で人間国宝の河合寛次郎など有名な人も多くいます。

家本為一は1972年に亡くなりますが、彼の死後も萩の塚早朝茶会は途切れることはありませんでした。やがて萩の塚衆によって家本為一のデスマスクが石室内に安置されました。
石室入り口の「火の用心」の文字も萩の塚衆が書いたもの。現在では禁止されていますが、かつては山で火を炊いて湯を沸かしていたため、火の始末には人一倍気をつけていたそうです。

このようなお話を聞いているうち、生徒たちは「私たちも朝、山に登りたい!」と言い出しました。困惑するご老人。早朝茶会は朝5時出発。まだ真っ暗の山道。ケガでもされたら困るとのことでした。しかし、熱心にたのみこむ生徒たち。そして私もいっしょに登るということで、いっしょに登ることを了承していただきました。

実際に登ったときのレポートはまた次回!!

野村 泰介(のむら たいすけ)

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長
今年創立125年の女子校の広報を担当しています。岡山市内唯一の女子校として、その特色をアピールできればと思います。

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