2025.08.24
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学びという不思議な時間

どうも、今村です。
今日は極めて個人的な思い出話をさせていただければと思います。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

受験生のころ

高校三年生、受験生だったころのことです。
私は東京学芸大学という学校に入ることを目指して勉強していました。

東京学芸大学は、教職免許を取得するための学校、ということで有名な学校です。ただ、私が学芸大学を目指していたのは「そこが国立だったから」という理由が一番大きかったです。我が家は決して裕福な家庭ではありませんでした。私立の大学には通わせられないと言われていましたし、受験生だからといって塾にも通うこともありませんでした。

当時祖父母から、今思い出しても有難いことですが「勉強に役立てて」と10万円をいただいた覚えがあります。使い方を考えたときに、塾に行くとなれば、そのお金は当時で言えば短い期間の夏期講習にでも行けばすぐ飛んでいってしまう金額だったと記憶しています。仮に放課後塾に行くということを選んだとしても、その時の夕飯をどうするのか?というお金の問題がまた切実になってくるわけです。高校三年生、まだまだ食べ盛りですから、コンビニのおにぎり一つで夕飯を済ませられるわけでもないですからね。
そんなわけで僕は塾などの場に自分が行って教えてもらうのではなく、自分の家や、公共の図書館などの場で、通信教育の教材などを用いて自分で学ぶという選択をしました。

その頃のことで、特に印象に残っているのは、当時のセンター試験が終わった後の時期のことです。学芸大学の国語科の二次試験は国語ただ一教科でした。他の私立大学などを受ける予定もない自分は、二次試験までの約一ヶ月間を、ず〜っと国語だけやるんです。

僕は、誰もいない、高校の自分のクラスに行ってその時期を過ごしていました。

独りの不思議な時間

その時期はもう高校三年生の授業はなく、三年生のフロアには誰もいませんでした。僕はその一ヶ月間、教室に行き、一人で自分の席に座り、タイマーをセットして過去問を解いて、見直して、ということをしていた。

学校まで電車で一時間くらいかかりましたから、家でやればよかったんでしょうが、試験勉強をするというときに何か「教室」という場の方が自分にとってスイッチが入ったんでしょうね。

先生にも友達にも誰にも会わず校舎に入り、1日過ごし、帰る。いつもの学校の喧騒とは全く違う、非日常的な表情を見せる教室という場が、なんだか魅力的に思えたのかもしれません。その場で、他のことは考えずに(当時僕は携帯電話を持っていなかったので、文字通り何ともつながらず)ただ国語の学びと向き合っていた。国語ただ一教科だけをやるとなっても、全く飽きませんでした。問題に対する選択肢を選んだり、一文字一文字記述したりする中で脳みそに少しずつ皺が刻まれていくのと、黒板の上にあるあの丸くて無機質な時計の秒針が、独りぼっちの教室の中の時をゆっくりと刻んでいくスピードがちょうどぴったりと重なるような不思議な感覚だったことを、ありありと覚えています。

独りの不思議な時間から

その一ヶ月というのは、もしかしたら忍耐と呼べる時間だったのかもしれません。誰にも会わず、誰とも何も共有しない寂しい時間とも言えるのかもしれない。

でも不思議と、早くこの時間が終われ、とは願わなかった。早くやめたいとも思わなかった。勿論、この期間が一区切りついてほっと一息つきたいという願いがなかったわけではないけれど、二次試験を終えたらこういう時間はなくなってしまうのかと、終わりが見えている寂しさのようなものがあった。

日本の大人は学ばない、と言われることが多々あります。確かに、総務省や文科省、またOECDの調査などのデータによると、印象ではなくデータに基づいて、日本の大人は学ばない、ということが言えるような状況があります。

子どもの勉強にしても「いつか勉強しなくてよくなるため」に勉強する、させられるという構造がとても多い。試験に受かったらもう勉強は止める、もう勉強しなくてよくなった大人を見て、そこを目指して勉強するというのは、矛盾を孕んだ、ある意味悲しい構造です。

今思えば、あの一ヶ月、あの独りぼっちの教室での学びの時間は、とても幸せなものだとわかる。あの学びが、国語へのさらなる興味と、教育ということへの関心を拓いてくれた。環境が自分をあそこに追い込んでくれたんだなと思うし、自分の意志だけではそういう経験はできなかったのではないかと思うんです。

綺麗な結論がある話ではありません。
自分はある意味恵まれていたと、懐古しているだけかもしれない。
でも、あの学びの不思議な手触りのある時間を、自分と関わる子どもたちと共に生み出すということは、今の自分の大きなモチベーションになっているのかもしれない。

思えば教師になった今でも、子どもたちが来る前や帰った後の、誰もいない教室という場にとても安らぎを感じる自分がいます。
がらんどうの教室に独り座りながら、子どもたちに不思議な学びの時間が訪れることを目指して、今日も準備しています。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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