『ひゃくえむ。』 努力することの大切さを教えてくれる感動のスポーツアニメーション

映画は時代を映し出す鏡。時々の社会問題や教育課題がリアルに描かれた映画を観ると、思わず考え込み、共感し、胸を打たれてしまいます。ここでは、そうした上質で旬な映画をピックアップし、作品のテーマに迫っていきます。今回は、100メートル走に人生を懸けた若者たちを描く『ひゃくえむ。』をご紹介します。
世界陸上を観るおもしろさを『ひゃくえむ。』で実感

(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
今年の世界陸上はおもしろかった。
特にワクワクしたのは男女の100メートル走と200メートル走。ただただ世界一の速さを決める。とにかく早く走ればいい。100メートル走はわずか10秒ほど、200メートルは20秒ほどで決着してしまうレースだ。それにすべてを賭けて走る人々の、なんと美しいことか。

(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
中でも男子100メートル走の決勝は、ドラマティックだった。
正直、ほとんどの人がパリ五輪王者のノア・ライルズ(アメリカ)か、キシェーン・トンプソン(ジャマイカ)の一騎打ちだろうと思っていた。しかし、決勝には弱いと言われていたオブリク・セヴィル(ジャマイカ)が、びっくりする勢いで後方からグイグイグイッと上がってきた。そして世界選手権初の金メダルをかっさらっていった。過去2回の世界陸上で連続4位という悔しい結果に終わっていた彼が、どんな思いで走ったのだろうか。いろいろと想像をしてしまった。
だがそんな思いを巡らせる結果に至ったのも、すべては今回紹介するアニメーション映画『ひゃくえむ。』を観たからだ。そう、この映画は100メートル走という競技に取り憑かれ、人生を賭けた男たちの物語が描かれる。
走ることに疑問を感じなかった主人公の心の変化

(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
物語のスタートは小学校。小学生時代のトガシ(声/松坂桃李)はとにかく走ることに関しては、誰にも負けない子だった。そんなトガシは早く走ることでクラスの人気者でもあり、「友達」も自分の「居場所」も手に入れてきたのだ。早く走ればすべてが叶うと思っていた。
そんなトガシは、ある日、めちゃくちゃなフォームでがむしゃらに走る、転校生の小宮(染谷将太)を見た。実は小宮は現実から逃避したくて走ることに打ち込んでいた。友達のいない小宮に、トガシは走るフォームを教えていく。放課後での2人きりの練習。おかげで小宮はどんどん走るのが速くなった。と同時に「走る」ことに打ち込み始めた小宮は、次第に貪欲に記録を追うようになっていく……。
物語はそんなトガシと小宮に寄り添い、彼らの友情と絆、ライバルとしての戦いにフォーカスを当てつつ、最終的には100メートル走に賭ける選手たちそれぞれのいきざまを浮き彫りにする。それを観て思ったのは、私たちが想像する以上に、競技というのはメンタルがものすごく大きく作用しているということだ。
トガシは途中までは何の苦もなく走っていたし、走ることを楽しんでいた。が、年をとるにつれて、周囲からの期待感だったり、自分が生み出すプレッシャーで走ることの楽しさを忘れていく。走ることがむしろ苦痛にもなっていく。そうすると、彼のタイムはどんどん下がっていく。いろんな人に抜かされるようになる。そして彼は陸上を離れるべきなのではないかと思い始める。
小宮は小宮で、ケガの後遺症で全力を出すことが怖くなっていたりする。果たしてそんな自分とどう決着をつけるのか。それは観てのお楽しみなので言及できないが、とにかくそれぞれがわずか10秒の戦いのために、人生を投じ、おのれに勝つためにそれぞれが努力するのである。結果がどう出るかはわからない。でもたとえ、望み通りの結果が出なかったとしても、そのトライする心が大切なのだ。結局はトライ&エラーをくり返すことで、人々は成長していくのである。失敗を恐れないこと、全力を尽くして負けるならそれでよし! そんなことがすがすがしいほどに胸に響いてくる。一部で『THE FIRST SLAM DUNK』以来の傑作スポーツアニメーションと言われているが、それも納得できるおもしろさなのだ。
陸上競技シーンを盛り上げるロトスコープの手法

(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
そのおもしろさを具体的に盛り上げているのが、ロトスコープという手法。いわゆる実写で撮影した映像をトレースして画にするというもので、古くからアニメーション界では存在していたやり方だ。でも時間がかかるし、手間がかかるしで、あまり使われなくなった手法なのである。そのやり方をこの映画では取り入れることで、試合前の緊張感あふれる選手それぞれがアップしている様子や、走る前の準備などを丹念に切り取る。そう、試合シーンは本当に10秒ほどでサラリと見せるが、その競技に入るまでの圧倒的な緊迫感をロトスコープを使ってリアルに見せることで、観客にも選手のギリギリの心臓バクバク感を体感させてくれるのである。本当に大変な作業だと思うが素晴らしい効果を出している。考えてみれば、これも努力の証だ。
また実際に陸上をやっていた人に言わせると、音の臨場感もすごいのだという。試合であのトラックに立ってみなければわからない音がしているそうなのだ。聞けば録音部の方も相当に気合が入っていたようで、ロトスコープ用の映像を撮る際に選手役の人それぞれの足にマイクを付け、その足音を録音して使ったのだとか。
中でも一番、胸をつかまれるのが、クライマックスの試合に至る前の長回し映像だ。これこそロトスコープだからこそできた臨場感。観客はトラック内にいて、選手と共にアップしている気になったはずだ。こういうこだわりが、陸上競技への想像力をはばたかせ、世界陸上を観た時に、まさにいろいろなドラマを感じとってしまったのである。だから別に選手のことを深く知っているわけでもないのに、世界陸上でセヴィルがうれしさのあまりユニフォームを真ん中から破った姿を見て、なんだかグッときてしまった。
でもこれが映画の素晴らしさ。映画は観るだけで、さまざまな人生を学ぶことができ、それぞれの人間に寄り添うことができる素晴らしい媒体なのだ。まさに『ひゃくえむ。』は挫折した経験が強い人間ほど心に響くし、今まさに挫折しているのならば、その救いの方法を示してくれる作品ともなっている。これから人生を紡ぐ中学生~高校生には、努力する大切さを必ずや伝えてくれる素晴らしい作品。観ないと損するアニメーション映画だ。
- Movie Data
監督:岩井澤健治
原作:魚豊
声の出演: 松坂桃李、染谷将太、笠間 淳、高橋李依、田中有紀、種﨑敦美、悠木 碧、内田雄馬、内山昂輝、津田健次郎ほか
配給:ポニーキャニオン、アスミック・エース
全国ロードショー
(C)魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
『ひゃくえむ。』公式サイト
- Story
生まれつき足が速く、そのおかげで友達も居場所も当たり前のように手に入れてきたトガシと、つらい現実を忘れるため走り続けていた転校生の小宮。トガシは小宮に速く走る方法を伝授、2人っきりで練習を重ねていく。打ち込めるものを見つけた小宮は、貪欲に記録を追うようになり、いつしかトガシと小宮は100メートル走を通じてライバルとも親友ともいえる関係となっていく。数年後、天才ランナーとして名を馳せたトガシは、勝ち続けなければならない恐怖におびえていた。そんな彼の前に、トップランナーのひとりとなった小宮が現れる……。
文:横森文
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横森 文(よこもり あや)
映画ライター&役者
中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。
2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。
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