2024.05.16
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ミスとファウル

失敗について。

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭 今村 行

どうも、今村です。
日々子どもに接していると、子どもの行動のあり方によっては注意の声掛けをすべき時というのが必ずあります。
とある行動を目にして子どもに声をかけ、その行動の意味について自省を促すとき、私自身も「なぜ今このことについて注意をすべきと判断したのか」ということを自省します。
そうすると、私なりにその判断の基準というものがあるということ、そしてそれが人によっては異なるということにも気付かされます。

基準を示すこと

私は子どもの頃、気分で怒り出す大人が苦手でした(控え目に言って、嫌いだったと言っていいと思います)。
何があったかは知らないけれど、申し訳ないけれど僕には関係ないことだし、尋ねたところで「お前には関係ない」とさらに火に油を注いでしまいそうだし、こちら側にはコントロール不能な因子が元となって怒られるということに対しては「なぜ?」と疑問をもっていました。
人を成長させる理不尽というものもあると思っていますが、気分で怒り出すという理不尽については、子どもながらに「なんだかなぁ」と思っていた気がします。

そんなわけで大人になった今、こういうことは叱るということを自分なりに明確にしておくべきだと思いましたし、それをできる限り子どもと共有しようと努めています。
万人に私の価値観を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、それでも自分が責任を持つべき学級という場においては、このような基準で自分は考えているということを子どもに伝えるようにしています。

ミスとファウル

私が学級の子どもと共有している判断基準は「ミスは応援するが、ファウルは注意する」ということです。
例えば、サッカーにたとえて考えてみましょう。
プレーしていると、必ずミスはあります。ミスを全くしないプレーヤーというのはいません。パスミスをして、ボールを奪われてしまうこともあるでしょう。私は、学級においては、そのようなミスについては責めないようにしています。
もちろん、ミスに繋がらないようにどう改善できるかいうことは一緒に考えていきますけれど、ミスをしたこと自体を厳しく叱責するようなことはありません。
ミスを恐れてチャレンジしなくなることほど、子どもにとって大きな損失はないかもしれません。
周りの仲間にも、仲間のミスによって仕事が増えたり迷惑を被ったりすることはあるかもしれないけれど、できればそれを責めるのではなく、共にサポートできたらいいよね、と伝えています。

一方で、ファウルは止めます。
大袈裟な例を挙げれば、サッカーのプレー中に、「なんかバットを振りたくなった」と言ってバットを持ち出し、素振りをしていたとしましょう。それはファウルです。
周りがサッカーをプレーしているフィールドでいきなりバットを振り出したら、危ない。それは警告の対象ですし、やめられないのであれば強制的にでもフィールドの外に一度出させる必要があります。

もちろん、全員が野球をプレーしている環境であればそれは止められるべき行動ではありません。ですから、やっていること自体が絶対的に悪い、ということではない。ですが、サッカーをプレーしているフィールド上では許容できない。つまりファウルというのは環境と行動の関係の上に成り立つということになります。

子どもたちと日々過ごしていると、ミスとファウルを見分けられていないことが度々あります。もしかしたら、ミスもファウルも「失敗」という言葉に括られているのかもしれません。
ですから、「いつも先生はどんどん失敗(ミス)しようと言っているのに、なぜこの失敗(ファウル)を注意するのか。話が違うじゃないか!」ということが起こりうる。
応援できる失敗(ミス)と、応援はできない失敗(ファウル)というものがある、ということは、多くの子どもにとっては、一人で自ずから分かることではないのかもしれない。
そういうことは、教えなければいけないことだと思います。
そしてファウルを考える際に環境と行動の関係ということを考えられていないことも多い。
行動にだけ焦点を当ててしまうと「この前はバットを振っていても何も言われなかったのに、なんで今それで注意されなくちゃいけないの?」という思考になってしまいます。
環境というものへの視点も、ミスとファウルを見分けるということと同様、一人で自ずから理解するのが簡単ではない事柄なのかもしれません。
そういうものを見分けられないままの子どもたちはやがて、誰にもファウルを止めてもらえない存在になっていってしまうかもしれません。

どうしても「力」を持ってしまっているのならば

評価者と呼ばれる存在は、そのような評価基準を明らかにすべきだと、私は思います。
なぜか。基準を明らかにしなかった場合どうなるのか。
単に基準を明確にできていないと言う場合「気分で怒る」ということが起こり得ます。そういう無意識は、ミスというよりもはやファウルだと私は思います。
では、意図的に評価基準を明確にしない場合はどうなるのか。権力を濫用できるようになると思います。できる限り評価基準をブラックボックスにしていた方が評価者としての権力を濫用できてしまう。
そうすると子どもは評価者である教師の顔色を注意深くうかがおうとし、媚びへつらい、ご機嫌を取り、ごまをするようになる。
評価基準がブラックボックスである場合であっても、評価者のお気に入りになるということには明確に価値があるように思えてしまうからです。でもそういうことによって、誰にもファウルを止めてもらえない存在を量産しているのかもしれない。

そういうのは、やっぱ嫌だよな、美しくないよな、と私は思います。

今村 行(いまむら すすむ)

東京学芸大学附属大泉小学校 教諭

東京都板橋区立紅梅小学校で5年勤めた後、東京学芸大学附属大泉小学校にやってきて今に至ります。教室で目の前の人たちと、基本を大切に、愉しさをつくることを忘れずに、過ごしていたいと思っています。

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