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教育インタビュー

2023.04.03
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眞壁 宏幹 ヴァーチャル・ミュージアム「デジタル世界図絵」の可能性(前編)

モノを介して、自分の人生を見つめ直す

眞壁宏幹氏は2013年より、慶應義塾大学文学部人文社会学科教育学専攻眞壁宏幹ゼミで、ある「教育プロジェクト」に取り組んでいます。その名もヴァーチャル・ミュージアム「デジタル世界図絵」、略して「VM(ファオ・エム)」。眞壁氏は2022年、VMの取り組みについてまとめた『デジタル世界図絵:ヴァーチャル・ミュージアムの取組み』(慶應義塾大学出版会)を上梓しました。

教育学の分野でアートベース教育が注目される昨今、VMはどのような教育的可能性を秘めているのでしょうか。VMの教育的意義について眞壁氏に話を伺いました。

自分とモノとの関わりから、自分の人生を見つめ直す

学びの場.com

ヴァーチャル・ミュージアム「デジタル世界図絵」(VM)とはどのような教育プロジェクトなのでしょうか。

眞壁宏幹(敬称略 以下、眞壁)

簡単にいうと、自分を形成した重要なモノの図像と、自分とそのモノとの関わりを言葉で記したキャプションによって構成された、ネット上のミュージアムのことです。これまでの人生で重要だったモノとの出会いや、人との関わりを象徴するモノを回想し、ネット上で展示する。学生たちに自分の人生を見つめ直し、将来の生き方にベクトルを与えてほしいとの思いから、この教育プロジェクトに取り組んでいます。

学びの場.com

どのような経緯でこの教育プロジェクトに取り組むことになったのですか。

眞壁

VMの生みの親は、ベルリン・フンボルト大学の教授だったミヒャエル・パーモンティエという方です。2008年に私が訪問研究員としてベルリン・フンボルト大学に訪れた際にパーモンティエ教授の取り組みに触発され、日本でも同じプロジェクトを実施したいと考えました。

もうひとつ、一般的なミュージアムの展示動向から発想したという側面があります。ミュージアム展示において、モノを通じて歴史や社会を示すという取り組みが21世紀になってから盛んに行われるようになりました。「100のモノが語る世界の歴史」といった企画展が世界各地で開催されていたのです。背景のひとつに、移民の増加を受けて、博物館は文化形成へどのように寄与できるのかという問いがありました。ベルリン・フンボルト大学の訪問研究員をしていた時にも、ドイツの移民が多い地区の小さな博物館で、高校と連携して「友情をモノで示す」といった展示が行われていました。手をつないだバービー人形やミサンガなどが展示されているのを見て面白いと感じ、日本でも同じような取り組みができないかと思いました。

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VMにはどのような教育的意義があるのでしょうか。

眞壁

疑問にお答えする前に、私の専門分野で使われる「陶冶(とうや)」について説明させてください。陶冶はドイツ語「Bildung」を、明治時代の教育学者だった湯原元一が訳したもので、主に「自己形成」「人間形成」という意味があります。ドイツでBildungは現在でもよく使われ、他者の自己形成に関わり助ける営みとしての「教育」とは区別される言葉です。教育学とは密接に関連しつつも「陶冶論」といわれる分野もあるのです。もっとも、現代日本ではあまり馴染みのない言葉かもしれません。

自分がどのようなプロセスを経て現在の自分になったのかを考えた時、学校教育だけでなく、さまざまな場所で出会ったモノや人、文化との関わりを抜きに考えることはできませんよね。そして自分と世界や他者との関係性は変容していきます。そのプロセスを回想することも「陶冶=人間形成」であり、VMはこうしたモノと出会う接面で生じている「モノと自分の関係性」の変容を回想して記述する試みだといえます。

教育的意義という観点からいうと、学生の世界や人生に対するモノの見方が変わったり、新しい習慣ができたりするきっかけを与えられると考えています。とはいえ陶冶は、目指すべき姿があり、そこに到達するといった性質のものではありません。そのため正解は存在せず、成果のエビデンスを示せるものではない。眞壁ゼミの学生がVMの取り組みによって「具体的にこういう人間になった」「こういうことができるようになった」と述べるのも難しいです。

あえて言うなら、以前書いていた文章とVMを経験した後に書く文章を比較することで、どういう表現の仕方が増えてきたかを見ることは可能かもしれません。「モノと自分の関係性」の変容を記述する過程において、自己形成のプロセスを言語化できるようになるということです。自分とモノの接面に添いながら、自分が見聞きしている感覚や触っている感覚を感じ、描写できる表現力は非常に重要です。今後もそういった表現力をVMの取り組みの中で育成できたらいいなと考えています。

学びの場.com

VMはリアルで行うことも可能だと思いますが、ヴァーチャル・ミュージアムとして開設しているのはなぜですか。

眞壁

ヴァーチャルの良さは、実際に持ってこられないようなモノでも、インターネットからさまざまな種類のフリー素材を拾える点にあります。モノの選択範囲が広がるわけです。またリンクを張ることもできます。一方ヴァーチャル・ミュージアムは実物を持たないので、音や匂い、触感は欠けているという欠点があります。とはえいえVMにおいては、インターネットが持つメリットのほうが教育的に意味があるのではないかと思いました。

眞壁ゼミにおけるVM制作の取り組み

学びの場.com

眞壁ゼミでは2013年よりVM制作に取り組んでいるということですが、眞壁教授はどのようなかたちで参与しているのでしょうか。

眞壁

私は、基本的にはVMのコンセプトを示すだけです。私がいると、学生たちは聞きモードになってしまうので、VM制作はサブゼミで進めるやり方をとっています。テーマや展示品、構成、ウェブデザインの構想などはゼミの学生たちにまかせています。

学びの場.com

一からつくり上げるという意味でも、初年度は特に大変だったのではないでしょうか。

眞壁

そうですね。一番大変だったのは「何のためにやるのか」を伝えることです。VMに取り組む意義について色々な例をあげながら何度も伝えました。正直に言うと全員が意義に気づいた上で卒業したとは言い難いですが、中には積極的に意義を認める学生も何人かおり、彼らが最終的にはVM係となってなんとかつくり上げてきました。

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VM制作の取り組みを始めて10年が経ちますが、学生がつくり上げるVMは年々進化していくものなのでしょうか。

眞壁

眞壁ゼミで制作しているVMは基本的にはその年度で完結する企画展です。年度によってテーマや展示方法が異なるため、右肩上がりに発展していくものではありません。振り返ると、私の想定を超えた企画展になった年もあれば、前の代をほとんど踏襲していた年もあります。

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眞壁ゼミではこれまでどのような企画展が開催されてきましたか。

眞壁

初代の学生たちは「食卓」というテーマで企画展を開催し、ダイニングテーブル、茶碗、箸、スプーンといった展示物の画像と、展示物とどのように出会い、関わり、成長してきたのかといったプロセスなどをキャプションで表現していました。

その他、「ホーム」や「学校」と場所をテーマに定めた年や、「憧れ」や「かく(書く、描く、かく)」という人間特有の動作や行為をテーマに選んだ年、自分史をモノで語ろうとした年、気になったものをどんどん撮影して無意識から自分の関心をあぶり出そうとした年などがあります。

学びの場.com

眞壁ゼミで制作しているVMは一般公開しているのでしょうか。

眞壁

個人情報保護の観点から、2020年度分までは眞壁ゼミの現役生と卒業生しかアクセスできません。しかし、できるなら多くの方に見ていただきたいと考え、2021年の代は個人が特定されないように意識したかたちで企画展をつくり、一般公開しました。

学びの場.com

VM制作に対し、眞壁ゼミの卒業生はどのような感想を抱いていましたか。

眞壁

「自分の人生を見つめ直すきっかけになった」「自分にとって大切なものが何だったのかを思い出すきっかけになった」「プロセスが楽しかった」などといった感想が多いです。また、「自分の個人的な経験が、意外に一般的なものであることに気づいた」という声も寄せられました。モノを介すことで、あまり内面に踏み込まずに個人的な経験を語り合えるようです。

音楽を聞いたり絵を見たりするといったアートの経験は、個人的な経験を一般化したり、逆に一般的なものを個人的な経験にすることでもあります。たとえば辛い時にある曲を聞いて、音楽によってなぐさめられたりすることがあるでしょう。このような経験は、個人的な経験が曲によって一般化されたり、一般的なものである曲が個人的な経験に引き寄せられたりする経験です。それと同じことがVMでも起こっているのだと卒業生の声から推測されます。

学びの場.com

VMの取り組みにおいて、今後の展望はありますか。

眞壁

2013年からつくってきた企画展の中から一部をピックアップしたり、配置や展示の仕方を変えたりしながら、一般の方にも見ていただける常設展のようなものをつくりたいと考えています。

また、2022年に刊行したVMについてまとめた本を持って行き、さまざまな場所でVMの取り組みを広めたり、協力者を募ったりしたいです。

眞壁 宏幹(まかべ ひろもと)

1959年生まれ。慶應義塾大学文学部教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科単位取得退学。専門は陶冶論(美・芸術と人間形成)、ドイツ教育思想史。 著書に『ヴァイマル文化の芸術と教育』(慶應義塾大学出版会、2020年)、『ミュージアム・エデュケーション』(慶應義塾大学出版会、2012年)、『西洋教育思想史 第2版』(慶應義塾大学出版会、2020年)など。

取材・文・写真:学びの場.com編集部

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