2010.11.08
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空襲ガレキ発掘作業

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長 野村 泰介

世界史の授業で、空襲ガレキ発掘作業を行いました。

現在、山陽女子中学校・高校のある敷地には戦前、鐘ヶ淵紡績の絹糸工場がありました。しかし、1945年6月29日の岡山空襲により工場は全焼、閉鎖されます。

1946年に山陽学園が工場跡地を取得し、学校が移転しました。しかし、大規模な工場であったためか、焼け跡の残骸の量も大変なものであったそうです。『山陽学園百年史』(1986年)によると、
「焼け跡の瓦礫の山積みされた運動場の片付けには、教職員がトロッコを押したり車をひいたりして暇を見つけては取り組んだが、体育の時間はまず片付け仕事をしてから授業に入るという習わしであった。」とあります。

グラウンドは教職員や生徒の手で5年がかりで整備されたそうですが、それでもグラウンドの片隅には破壊された工場の残骸が戦後20年ほど放置されていました。1970年代になると完全に片付けられましたが、片付ける過程でガレキの一部をグラウンドに埋めたという話を聞いたことがありました。

その話を実証するために、該当箇所を掘り起こしてみました。すると、10センチほど掘ったところから、セメントの付着したレンガ片や、屋根瓦の破片などが次々出土。50センチまで掘り進めると、瓦片が固まって出土しました。その瓦の一部は黒く焦げたような跡が見られます。

戦後、10年ごとに撮影された学校の航空写真を検証したところ、これらガレキが出土した箇所に、山陽学園移転以後、瓦葺レンガ構造の建築物を建てた記録がないことから、これらは空襲で焼けた工場の残骸であると判断しました。

65年前、街ひとつまるごと破壊されていますので、空襲ガレキはとりたてて希少性のあるものではありません。しかし、65年という月日が経つ中で、ちょっと掘っただけで手にとることができるという体験に意義を感じます。

生徒たちは、今まで教科書や体験者の話など、間接的にしか空襲の様子を知る機会がありませんでしたが、掘り出されたガレキの重さを感じることにより、「本当にここに爆弾が落ちたんだ。」と実感することができたのではないでしょうか。
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野村 泰介(のむら たいすけ)

学校法人山陽学園 山陽女子中学・高等学校広報室長
今年創立125年の女子校の広報を担当しています。岡山市内唯一の女子校として、その特色をアピールできればと思います。

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