2004.05.25
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理科、社会はどこに消えた!?(はじめての公立小)

国語なのに読み物がない「あ・い・う・え・お」教科書、カラー写真満載の算数、音楽は昔より楽しそうだが、なにより1年生に理科と社会の授業がないっていうのはどういうわけだ? ......無事双子たちの入学が決まり、新学期が始まった。しかし目の前にあるのは「知識」も「専門性」もない薄っぺらな教科書。子どもの「学びたい!」「知りたい!」気持ちはどうすりゃいいんだ!?

 「住めば都」と人はいう。しかし、都になるまでにはやはりそれなりの時間がかかるもので、無事入学式を終え、授業が始まり、給食がスタートして1ヵ月が過ぎても、いまだ<小学生の保護者>である自分がピンとこない。学校を訪問するときに着用する緑の腕章もいただいた。自転車につける<防犯パトロール中>パネルもいただいた。双子は、心許ない母親を尻目に、ランドセルを背負って毎朝元気に飛び出してゆく。子どもたちが日々充実しているのなら、学校選択に間違いはナシ。それですませておけばいいのだが、欲深きもの――それは母親。保守といわれようが時代遅れと笑われようが、「学校」と「勉強」は切り離せない。授業の内容と進み具合が気になってしょうがないのだ。

 独身時代、世間で教科書問題が採り沙汰されているのは知っていた。文部省が文部科学省になり、授業時間やカリキュラムが大きく変更されたことだって新聞やニュースでそれとはなく知っていた。が、だ。聞くと見るでは大違い。国語なのに読み物がない「あ・い・う・え・お」教科書、カラー写真満載の算数、音楽は昔より楽しそうだが、なにより1年生に理科と社会の授業がないっていうのはどういうわけだ? 

 国語・算数・理科・社会。かつて小学校の授業といえば、この4科目と相場が決まっていた。国語・算数・理科・社会。まるで早口言葉のように、それは常識だった。だから、虫や魚が好きで、ミニ図鑑を持ち歩く長男にことあるごとに語っていたのだ。「小学校に入ったら、観察とか実験とかできるんだよ。楽しみだねぇ」。
 男女の性差というより個人差だろうが、我が家の双子に関していえば、文字の読み書きなど平面的なものは、断然、長女。立体パズルや積み木の裏を読むような理系思考は長男。これは物心つく以前から、なぜか自然と得意が分かれている。なんにつけ文字の読み書きは基本のキだが、追いついたと思うとさらに先に行かれ、なかなか長女に追いつけない彼にとって、『理科』という言葉はこの先の小学校生活をバラ色に彩る魔法だった。母親という名の魔女である私が、ついうっかりかけてしまった不用意な魔法……。

 同時に魔女は、「生活」の授業の実態を知らずにいた。理科・社会の代わりということで、各々の特色がメリハリよく1冊にまとめられているのだろうと思い込んでいた。ところが、教科書は単なるカタログ状態。これまたカラー写真がごっそりと並び、見開きで一枚絵のイラスト。「友達と仲良く遊ぼう」「花を育てよう」「季節を探す」「いろいろなことに挑戦してみる」……タイトルだけが大きな文字でページに並ぶ。

「ねぇ、これ理科? 幼稚園でもアサガオ育てたし、ドングリ拾いもしてるよね……」

 いっきにモチベーションが落ちた長男に返す言葉がなかった。

 「『季節を探す』が理科か?」と問われれば、もちろんそれは理科だ。「『友達を作る』が社会か?」と問われれば、もちろんそれもコミュニケーション、人との繋がりという大事な社会の勉強だ。だが、残念なことにカラー写真の美しい教科書には、知恵も専門性もない。

 子どもたちは「知りたい」のだ。対象に興味があるからこそ、その先を、その後を、それ以外を。小学1年生といって侮ってはいけない。特別な早期教育なんか受けていなくたって、世の中を見て、自然を見て、人を見て、日々感じ、そして考えている。ところが教科書には"こたえ"がない。こたえ。答えではなく、応え。それが教科書の仕事ではないというなら、教師の腕だけに求められるものなのか、それとも親が応えるべきものなのか? 公立小学校に入学して約2ヶ月、<小学生の保護者>である自分にピンとこない理由がそこにある。学校教育と家庭教育の境界線。想像以上に混沌とした現状。曖昧なのはなにも現代親の子育てだけではない。

(イラスト:Yoko Tanaka)

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