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教育インタビュー

2012.01.17
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映画監督・山崎 貴 新作『ALWAYS 三丁目の夕日'64』と自身のルーツを語る。 本当に好きなものを見つけたら、どんな障壁があろうとそれに邁進してしまうものです。

最新作『ALWAYS 三丁目の夕日'64』で再び監督を務めた山崎 貴さん。今回は映画についてはもちろんのこと、なぜ監督業に就かれたのか、監督自身のルーツについても語っていただきました。なんと、山崎監督は小学生時代にとても素晴らしい教師と出会い、人生に多大な影響を与えられたのだそうです。

映画監督・山崎 貴 新作『ALWAYS 三丁目の夕日'64』と自身のルーツを語る。~本当に好きなものを見つけたら、どんな障壁があろうとそれに邁進してしまうものです。

昭和39年、皆が有頂天になっていられた最後の年を描く

学びの場.com3作目となる『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズですが、今回はどのような経緯から製作されたのでしょうか?

映画監督・山崎 貴実は、大ヒットとなった1作目から続編となる2作目を作る時は多少抵抗がありましたが、今回はなかったんです。3作目ともなると、単純に「三丁目の皆はどうなっているのだろう?」ということに興味が湧いてきて。今ではあの世界は、何かパラレルワールドのような、三丁目の世界が本当に存在していて、向こうでも時間が流れていて、僕らはタイムマシンに乗ってその間を行き来しているに過ぎないような、そんな気持ちがしてくるんです。だから本作の舞台は、1作目(05年発表)が昭和33年、2作目(07発表)が昭和34年だったので、昭和39年かなと。

学びの場.com昭和39年は監督の生まれた年ですね。

映画監督・山崎 貴2作目の時のキャンペーンの際、出演者で、僕と同い年の薬師丸ひろ子さん・堤真一さんから「次をやるなら昭和39年で」なんて話は出ていたんですよ。映画公開日が前作からちょうどリアルに5年後になりましたし、そろそろ39年(の世界を描く時)だよねと。本当に自然の流れでした。

それと、鈴木オートに勤める星野六子役の堀北真希さんから「20歳の誕生日の時にDVDで1作目を見て、こういう作品にまた出会いたいと思った」という内容のお手紙をいただいたんですよ。それを読んで感動して、「これは是非とも六子を嫁に出さなきゃ」という気持ちになったんです(笑)。どういう思考回路でそうなったのか、自分でもよくわかりませんが(笑)。あともうひとつは、親のためというのもありますかね。

学びの場.comご両親が本シリーズのファンってことですか?

映画監督・山崎 貴「三丁目が動き出した」って言うと、もう目の輝きが違う(笑)。「『三丁目』やるの!?」と、両親とも完全にウキウキし出すんです。それを見ていると親のためにもこのシリーズは作らなければって。それは、僕だけでなくスタッフの親も同じらしいんです。親孝行になると思うと、何か独特のエネルギーが生まれますよね。

学びの場.com監督自身は昭和39年に対する羨ましさというか、あの時代は良かったというような思いはあるのでしょうか?

映画監督・山崎 貴39年に限らず昭和30年代という、明らかに未来が明るい方向へ向かっていた時代というのは羨ましいですね。同時に不便さも生活のどこかにあった時代。実は最近、便利ということの毒性に気づかされたんです。「便利=出落ち」とでも言うのでしょうか、本当に便利になったと感じるのは最初だけで、後はただの日常になっていく。そして便利な状況を生むことで反面、いろんなものが犠牲になってしまう。例えば電気が付いた時、誰もが便利だと思ったはずなのに、それがいつの間にか当たり前になり、誰も感謝もしなくなる。僕自身も例えばハードディスクレコーダーが登場した時は本当に嬉しかったけれど、そのせいで何十時間も録画し、それを見る縛りのある生活になっていたりする。しかもハードディスクレコーダーの登場で皆がCMを飛ばして見るようになった結果、テレビの広告料が減り、番組などの製作費が減り、映像を作る人達の生活を脅かしている。便利さという言葉の裏にある危険性に、特に3.11以降、つくづく思い知らされました。

学びの場.comそのせいでしょうか、本作には未来への希望が感じられるとともに、この頃から社会は間違った方向へ行ったのではないか、という戒めをも感じられるのですが。

映画監督・山崎 貴別に強くそのことを意識していたわけではないです。説教臭さみたいなのは避けたいと思っていたので。ただ時代を描く上ではその辺を入れないわけにいかない。劇中でも茶川家にテレビが来たのを観にきた近所の子どもたちが「なんだ、白黒テレビじゃん」と言う場面があります。それこそ第1作の全否定的な台詞です。けれど、実際に当時、皆がカラーテレビに飛びついていたわけで。そういう時代の持つ切なさみたいなのはどうしても出てきてしまいますよね。特に、39年は高度経済成長時代で有頂天になっていられた最後の年ではないかと思いますから。いろいろ取材してみると、そういう面を描かないわけにはいかなかったのです。

「モノを創り出す」ルーツは小学校5年生から

学びの場.com小説家の茶川は、実の息子のように面倒を見ている淳之介に対して「いい学校を出て、いい会社に入れば幸せになるんだ」という、現代ではすっかり崩壊してしまった神話のような話を教えています。ひょっとして監督も子ども時代、このような育てられ方をされたのですか?

映画監督・山崎 貴いや、僕の場合は全く逆で、両親はやりたいことをやりなさいと言ってくれるタイプでした。そりゃ、夜中まで僕がテレビで映画を見ていれば「何やってるの!」と言いにはきましたが。僕は映画『未知との遭遇』や『スターウォーズ』を観て以来、絶対に特撮関係の仕事に就くと決めていたので「勉強だから見せてほしい」と、両親を言い負かしていたんです。すると許してくれた。子どものやりたい事には理解のある親でした。ウチは特に裕福というわけではない中流家庭です。

今回、淳之介は小説家になりたい気持ちと茶川の考えとの間で葛藤します。僕が淳之介を通して描きたかったことは、「他者から何を言われても、どうしてもそこを目指してしまうものがある」ということです。僕の場合、たまたま理解のある両親だったので障壁にはなりませんでしたが、育った地域の環境は大障壁だったんです。当時、東京では自主製作映画ブームが起きていて、手塚眞さんをはじめいろんな才能ある映像作家が出てきた時代。ところが、僕の周囲では映像業界に興味がある人なんて全くいませんでした。高校の映画研究会に入ってみたものの、“映研”とは名ばかりのトランプゲーム「大貧民」がやりたくて集まるだけの部員たち(笑)。映像業界に入るためにはどうすればいいか皆目見当もつきませんでした。じゃあ、気落ちして諦めたのかというと、むしろ逆。「どうしたらなれるのか」、それを考えることが原動力になったんです。だから、当時から「絶対に映像業界に入る」という自信だけはありました。親や環境を言い訳にして諦められる道なら、所詮、その程度のことなんだと思います。

学びの場.comそれで監督は高校卒業後、阿佐ヶ谷美術専門学校に入られたんですね。

映画監督・山崎 貴専門学校に行った時は、それまで遊びとしか思われなかった事が実際に課題に結びつき、それをやることで褒められるから毎日が楽しくて仕方ありませんでした。この楽しさ、実はすでに小学校5~6年生の時に味わっていたんです。当時、35歳くらいの担任教師が何でもいいからやったことをノートに書くと評価してくれる先生だったんです。例えば怪獣のデザインとか、宇宙人のデザイン、SF小説を書いても本気で「お前、すごいな」と喜んでくれて、褒めてくれました。そのノートの提出回数は、ひとり最低でも1週間に1度と言われていて、誰が何冊出したかを棒グラフにして掲示していました。僕だけその棒グラフが何往復もするほど膨大になっていたんですよ(笑)。

学びの場.comクリエイティブな活動を評価される快感を味わってしまったんですね。

映画監督・山崎 貴はい、そこで今の自分の「モノを創り出す」ルーツが生まれたと言っても過言ではありません。こんなこともありました。5年生の時に登山があってその登山記を書く時も、普通は原稿用紙1~2枚のところ50枚書いて(笑)。けど、その担任の先生はちゃんと評価してくれて、もう嬉しくて、嬉しくて。「じゃあ今度は、6年の修学旅行の作文を250枚書くぞ」と、自分で勝手に決めて挑みました。「期限も絶対に守るぞ」と。提出の前日、あと50枚を残すところまでいき、もうだめかと思いましたが、生まれて初めて徹夜して書き上げました。さすがにその大作を渡した時は、先生も少し引いていましたが(笑)。
でも、その時の頑張りが10数年後になって活きました。CGを作るようになり、提出期限がかなり短期間であっても、あの250枚の修学旅行記を書いた時ほどは辛くないのです。「決めた目標を、決めた時間内にやる」というあの徹夜の経験は、僕の原点になっていると言えます。本当に素晴らしい先生と出会えて感謝しています。あの時の出会いが僕のその後の人生に良い影響を与えてくれたし、巣立ちをテーマにした本作『ALWAYS 三丁目の夕日’64』ができあがったのも、小学校5年生時代の延長線にあることだと思っています。

関連情報

「ALWAYS 三丁目の夕日'64」 監督・脚本・VFX:山崎貴/出演:吉岡秀隆、堤真一、小雪、堀北真希、もたいまさこ、三浦友和、薬師丸ひろ子、森山未來、大森南朋ほか

ストーリー
昭和39年。東京オリンピックを前にビルや高速道路などは建設ラッシュで、日本中が熱気に満ちあふれていた。だがそんな中、小説家の茶川は連載の継続危機 に陥って大慌て。一方、茶川家の真向かいに住む鈴木オートでは従業員の六子に好きな人ができてひと騒動が。しかもその六子が好きになった医者には、悪評判 が立っていたのだ……。

山崎 貴(やまざき たかし)

1964年6月12日生まれ。長野県出身。阿佐ヶ谷美術専門学校を卒業後、白組に入社。伊丹十三監督の『大病人』(93年)、『静かな生活』(95年)などで高い映像技術を獲得。00年に『ジュブナイル Juvenile』で監督デビュー。同作でイタリアのジフォーニ映画祭・子ども映画部門最優秀賞などを受賞。その後も『ALWAYS 三丁目の夕日』(05年)、『BALLAD 名もなき恋のうた』(09年)や『friends もののけ島のナキ』(11年)などを監督している。

インタビュー・文:横森 文/写真:言美 歩/映画写真提供:東宝

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