教育トレンド

教育インタビュー

2009.11.17
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植田みどり イギリスの教育改革とICT活用について語る 今も政府主導の一貫した政策を継承しています。

植田みどりさんはイギリスの教育事情に詳しい、国立教育政策研究所の主任研究官。「未来のイギリス社会を担う人材をどう育てるか」を政府主導で考え、70年代から地域や家庭をも巻き込んで教育改革を進めてきたイギリスには、日本の教育にとっても参考になる所があるといいます。学校現場での積極的なICT活用もその一つ。植田さんにお話を伺いました。

首相が交代しても継続されるイギリスの教育改革

学びの場.comイギリスは、1970年代に深刻な経済危機に陥ったことをきっかけに、本格的な教育改革に取り組み始めたと聞きます。最初に声をあげたのは誰だったのですか?

植田みどりイギリスは、1970年代に「英国病」と呼ばれるほどの経済危機に陥り、この病の克服のためにはまず教育を立て直し、有能な人材の育成が必要だと考えました。そこで声をあげたのは当時の労働党のキャラハン首相でした。1976年、オックスフォード大学ラスキン・カレッジでの演説で、「この英国病を克服するために、これからの社会を担う子どもをどう育てるか、学校だけでなく、保護者、地域も連携して考え、実行していこう」と訴えました。  もともと、キャラハン首相にこうした教育改革の必要性を強く訴えたのは、経済団体の人たちでした。彼らは日本を教育改革成功のモデルとして引き合いに出しました。その後の改革では実際に日本での改革が参考にされたのです。

学びの場.comその後の首相もキャラハン首相の考え方を継承したのですか?

植田みどりそうです。その後、1979年に保守党からサッチャー首相が誕生し、彼女はキャラハンの考えを継承しつつ、新自由主義的な改革、つまり国民に権限を与えると共に、自己責任を負わせる改革を実行し、それを教育改革にも適応しました。学校の自律性を高め、学校の裁量権の拡大を図ると共に、地方自治体の権限を削減してゆきました。保護者には学校選択という権利と、学校理事会制度を通しての学校経営に関する責任を持たせました。

1988年に出された教育改革法が現在のイギリスの教育の大枠を規定しています。この法律によって、イギリスでは初めて『ナショナル・カリキュラム(全国共通カリキュラム)』が制定されました。教え方は自由ですが、最終的に『ナショナル・テスト(全国共通テスト。5歳から16歳の義務教育段階で4回実施される)』によって、内容の定着が測られます。  その後1990年に就任した保守党のメージャー首相は、この改革路線を引き継ぎ、『シティズンズ・チャーター(The Citizen’s Charter:行政評価制度の一つ)』(1991年)を制定するなど、消費者としての保護者や地域の権利をより明確にしました。また、PFI(公共施設等の整備等に民間資金等を活用する手法)の導入など行財政についての改革も進めました。

学びの場.com1997年に就任した労働党のブレア首相は就任演説で我々の優先課題は、「教育、教育、教育」と連呼するなど、やはり教育改革に熱心な人でしたね。

植田みどりブレア首相は、歴代の首相の教育改革を引き継ぎつつ、サッチャーの時代に広がった学校間格差の縮小のため、地域格差などを考慮して、予算の重点配分を行い、社会経済的に厳しい地域や、困難を抱えながらもがんばっている学校に予算を投入するなどのセイフティネットを用意しました。ブレア首相は、教育水準向上を教育政策の優先課題とし、第1期目は初等教育を中心に基礎学力の向上を、第2期目は中等教育を中心に義務教育と義務教育後の円滑な接続を図るための教育改革に取り組みました。この根底には、社会を担う自律した市民の育成という『第三の道』の理念がありました。  2004年には、政府から『Every Child Matters』という文書が出され、学校段階だけではなく、就学前及び義務教育後の子どもたちのケアについても触れられ、「健康で」「安全に」「楽しくかつ目標達成できるように」「子どもが積極的に参加できるように」「経済社会で成功できるように」という5つの理念を柱に、トータルに子どもたちを守り、育てていくことが目指されました。学校だけでなく子どもを取り巻く全ての人たちが一体となって取り組むという姿勢が示されました。そして、家庭や地域を巻き込みながら、子どもが学校教育を通してより良い人生のスタートを切ることが出来るようにしていこうとしています。  その後、2007年に労働党のブラウン首相が就任しますが、彼も基本的にブレア首相の改革路線を引き継ぎながら、『Every Child Matters』の理念に基づく施策を確実に実行するために『Child Plan』を発表し、改革に取り組んでいます。

学びの場.com家庭や地域まで巻き込んで子どもを育てていこうという取り組みは、日本でも広がりつつあると思います。それらも含め、こうしたイギリスの教育改革から日本が学べることは何でしょうか。

植田みどり大きく3点あげられます。一つ目は、学校の自律性の重視と教育委員会の支援です。イギリスでは学校に人事や財政、カリキュラムなどの自主裁量権を与え、その活動の結果をきちんと評価しています。と同時に、日本の教育委員会に相当する地方当局(Local Authority)が学校へのサポートとプレッシャーを与える役割を担っています。イギリスでは自律的に学校経営に取り組む学校とそれを支える地方教育行政が相互に関係することで、よりよい教育を提供しようとしていると言えるでしょう。日本でも現在、特色ある学校づくりなどにより学校の裁量が少しずつ出てきています。また、自己評価の実施と公表が義務化されています。さらに評価結果を受け取った教育委員会は条件整備や学校への改善支援に取り組むことが求められています。教育委員会のような各地方の組織が、どのように学校現場を支援し、よりよい教育環境を整備していくのかを考える上で、地方自治体に学校のサポート機能を持たせているイギリスの支援メカニズムは参考になると思います。  二つ目は、子どもの成長を継続的に支援する体制です。学校段階だけではなく、0歳から19歳まで常に学び続けていけるような環境づくりを目指しています。イギリスは義務教育が15歳までですが、その後進学や就職、職業訓練に就かなければ路頭に迷うことになってしまいます。イギリスはニート(NEET)の発祥の国ですが、ニートの問題が表面化したことをきっかけに、学校段階から「働くとは?」を考えさせ、職業意識を啓発すると共に、生涯学び続けていけるようなスキルと知識を身につけさせることを重視したキャリア教育に力を入れるようになりました。例えば、中等学校では教科横断的な活動として『Work Related Learning』を導入し、働くことから学ぶ、働くことについて学ぶ、働くことのために学ぶの3つの視点から学校の状況にあった多様な活動が展開されています。具体的には、勤労体験、求人情報や給与明細の見方、労働者の権利などの知識の習得、情報技術などの技能の習得、コミュニケーション力や問題解決力の育成など多様な活動が盛り込まれています。さらに、学校外では、個々のニーズにあった包括的で継続的な支援の仕組みも整備されています。例えば、13歳から19歳の若者を対象にした『コネクションズ(Connexions)』事業は有名です。ここでは学校と学校外の機関が連携し、若者が社会から孤立しないようにサポートしていく取り組みが関係する機関のネットワークによって包括的に実施されています。日本でも若年無業者問題は深刻化していますので、社会ですぐに役立つことを教えるだけでなく、働くことの意味を考えさせ、常に自己啓発を図り、自己を向上させる活動を継続的に行い、社会と関わって生きていく人間の育成を目指した教育と支援体制を学校内外で作ることが重要であると思います。イギリスでの子どもの支援体制は参考になると思います。

三つ目は、イギリスでは教育改革についてのグランドデザイン、つまり各政策の土台となるビジョンがあり、それが政府内で共有されているということです。「どういう子どもを育てたいか」について、明確な指針が政府にあり、その指針に沿って政策が作られるので、政策にぶれがなく、一貫性があるのです。つまり、ジグソーパズルを当てはめるように「この政策によって、この部分がフォローできます」というように目的と手段がはっきりしています。日本でも様々な有益な提案が出されるのですが、そもそも「どのような子どもを育てたいか」という点についての政府の見解が明確でないために、政策や提案がばらばらになってしまうというもったいない事態があると思います。  イギリスでこうしたグランドデザインが可能なのは、それぞれの政党がシンクタンクを持っており、自分たちが政権をとったときのために、データや理論を活用しながら普段から綿密に政策を練っているからだと思います。

学校のICT化が進むイギリスの教育事情

学びの場.comイギリスの学校では、ICT活用が非常に進んでおり、各教室に電子黒板があるのは当たり前、と聞きます。これも教育改革の一環なのでしょうか。

植田みどりそうですね。ブレア首相時代、「これからの時代は、ICTが使いこなせなければ、世界での競争に参戦することはできない」という彼の考えのもと、教育現場のICT化を政府主導で進めました。  政府は各学校に1台ずつ電子黒板を整備するなど学校の情報機器やブロードバンド環境の整備を行いました。それを支える組織として『Becta(British Educational Communications and Technology Agency )』というハード・ソフト両面で学校現場のICT化をリードする専門のエージェンシーを政府直結で置きました。  そして、『資格・カリキュラム機構(Qualifications and Curriculum Authority, QCA)』が中心となってカリキュラムや教材の開発や普及に努めました。また、現職教員への研修にも力を入れました。  さらに、校長などの学校管理職の養成や研修を行う機関として『ナショナル・カレッジ(National College for School Leadership, NCSL)』を創設し、全新任校長に1台ずつラップトップコンピューターを配ったり、ICT技能活用の研修を充実させるなど、学校管理職のICT技能の向上を目指しました。さらに、学校内のLANの整備についても積極的に予算を投入し、教員の事務作業や学校事務の効率化も行いました。  その結果、電子黒板のよさに気づいた校長たちが予算をICT化に使うようになり(イギリスでは、学校予算の配分権限が学校にあります)、ほとんどの学校で教室に電子黒板が整備されるようになったのです。  電子黒板用の教材ソフトについては、QCAだけでなく、多くの民間企業が提供しており、先生方はそこから自由に選べます。実際に使う中で、「もっとこうしたほうがよい」という新しい内容や使い方を学校内で議論したり、共有したりしています。また、ネット上でも議論したり、改訂したソフトをネット上にアップし、それをまたほかの先生たちと共有したりしており、教授技術の向上にも役立っています。

学びの場.com先生方、特に年配の先生などには抵抗はなかったのでしょうか。

植田みどりもちろん抵抗された先生もいました。私が以前訪ねた学校で、年配の女性の先生が校長に「ICT研修を受けるか、そうでなければ教師を辞めるか」という二者択一を迫られたという話をしてくれました。その先生は泣きながら研修を受けたそうです。ですが、その先生は「実際電子黒板を使ってみたら思いのほか便利で、利用価値があった」と話されました。今ではその学校の中でも一番といっていいくらい上手に使いこなしていると校長も言っておられました。やはり、もともとの授業技術が高い先生は、新しいツールも上手に取り入れて授業を発展させていく力があるようで、校長はそれを見抜いていたのですね。

学びの場.com子どもたちの反応はどうでしたか。

植田みどり積極的に授業に参加しています。特に理数系の授業などでは、電子黒板で実験の疑似体験ができたり、美しいグラフを見せられたり、ゲーム感覚で算数数学の問題を解いたり出来るので、子どもの興味を引きます。  また、たとえばラテン語のような教師の確保が難しい言語を学びたい生徒がいたときにも、ソフトさえあれば専門の先生を探してくる必要がなくなりました。  もともとイギリスでは教員の人材不足が深刻で、そうした意味でも、一定以上のレベルの授業を提供できるということで、ICT化が進んだという背景もあるようです。

学びの場.comなるほど。やはり最初は多少強引にでも、政府主導で徹底させるということが功を奏したのでしょうか。

植田みどりイギリスはいち早くICTの重要性に気づき政府を挙げて取り組んできました。そのことが功を奏しているのだと思います。職業技能としてもICT技能が重視されています。そのため、学校においてICT技能をきちんと身につけさせることが重要となっています。また、貧しい家庭が多い地域では、学校が校内のICT環境を整備し、子どものICT技能を高めるためだけでなく、保護者にもパソコン教室などを開催してICT技能の向上を図っているところもあります。ある学校の校長は、「保護者に最低限のパソコンを使える能力を身につけさせれば仕事を見つける機会も増えるでしょう。保護者が仕事に就ければ、子どもが安心して学ぶことが出来る環境を作ることができます」と言って、ICTがいかに重要かを語ってくれました。  イギリスの校長が来日した際に「僕たちは日本のメーカーのコンピューターを使っているから、日本の学校はイギリスよりも電子化が進んでいるんだろう」と言って、日本の学校視察を楽しみにされていました。しかし日本の学校を見たら、自分たちのほうが進んでいることに驚かれていました。日本も情報化のための知恵を持った組織はたくさんあるので、ICTの積極活用の土壌はあると思います。日本の文化に合った方法で学校でのICT化が進めば、授業技術の発展の面からも有益だと思います。そのためには、施設面での環境整備と共に、教職員への研修の充実、支援体制の整備など、ソフトとハードの両面からの体制整備をして欲しいと思います。

植田 みどり(うえだ みどり)

国立教育政策研究所教育政策・評価研究部主任研究官。青山学院大学大学院単位取得退学。
日本学術振興会特別研究員、佐賀大学高等教育開発センター講師を経て、2006年より現職。また、2009年4月より、政策研究大学院大学非常勤講師も務める。主な研究対象は、イギリスの地方教育行政改革に関する研究、また学校評価に関する日英比較研究など。1998年にはロンドン郊外の中等学校『ヘイズ・スクール』に約半年間滞在し学校経営と地方教育行政の関係についてフィールドワークを実施。その後も現地視察を重ね、イギリスの教育現場の「今」に詳しい。

インタビュー・文:菅原然子/写真:言美歩

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