2004.10.12
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脳の研究は教育に革命を起こせるのか?

20世紀の間、人間の活動すべてを統御する主体が脳であることはわかっていたが、その構造はあまりに複雑で、科学者の手に負えるものではなかった。ましてや脳の構造と社会科学的な現象の結びつきについては、まさに「雲をつかむような話」だった。しかし時代はめぐり、分子生物学の進歩、心理学の研究成果なども踏まえ、脳の性質に合った教育の姿がわずかながら見えてきた。

 20世紀の間、人間の活動すべてを統御する主体が脳であることはわかっていたが、その構造はあまりに複雑で、科学者の手に負えるものではなかった。ましてや脳の構造と社会科学的な現象の結びつきについては、まさに「雲をつかむような話」だった。しかし時代はめぐり、分子生物学の進歩、心理学の研究成果なども踏まえ、脳の性質に合った教育の姿がわずかながら見えてきた。

たとえば、人間の脳には「臨界期」というものがある。これはある行動の学習が成り立たなくなる限界の時期を指していて、もともとはハイイロガンの「刷り込み(最初に見たものを親だと思う習性)」が一定時期を過ぎると起きないことから来ている。

人間の視覚野を考えてみると、生後8カ月までにニューロンあたりのシナプスの数がピークに達し、その後は減少し3歳までに大人と同じ数になる。この場合、生後8カ月までが「臨界期」と考えられる。つまり視覚に関する学習は生後8カ月までにほとんど終了し、その後は学習がほとんど行われない、ということだ。

現在はそこまでしかわかっていないが、この考えが正しいとすれば学習すべき内容ごとに、学習に適した時期があり、その時期にその内容を学習させるのが最も効果的、ということになる。

またある研究は、ADHDの原因はこのシナプスが減少する過程がうまくないことで、シナプスが通常より多いため混乱が起きているのではないか、という仮説を出している。

このように今後研究が進んでいけば、学習方法や学習の時期などについて、科学的理論に裏付けられた新しい方法が生み出されていく可能性は高い。ただし、科学的に新しい仮説が実証されるまでには長い時間がかかり、ただ「うまくいきそうだ」という見込みだけで進めたのでは、誤った道にも陥りかねない。たとえば、2年ほど前に

「ゲーム脳」という言葉がもてはやされたことがあったが、これはいささか時期尚早な仮説で、いまだに賛否両論が絶えない。

■「ゲーム脳」とは何だったのか?

 「ゲーム脳」の提唱者は日本大学の森昭雄教授で、『ゲームの脳の恐怖』(NHK生活人新書)という著書が発刊されるに及んで、「ゲーム脳」という言葉が一気に市民権を得た。

 それでは、森教授の提唱した「ゲーム脳」とはどういうものなのか? 著書を簡単に要約すると以下のようになる。

大脳の前頭前野は、理性、創造性、意志決定などを司る、脳の中でも「人間を人間たらしめている」重要な部分である。森教授が独自に開発した簡易脳波計でこの前頭前野の脳波を測定すると、ゲーム中の脳波は痴呆症の人の脳波にきわめて似ている。それも、普段ゲームをしない人はゲーム中もその傾向が少なくゲームが終われば正常な脳波に戻るのに対し、普段から長時間ゲームをしている人はゲームをしていないときの脳波も痴呆症に近くなっている。さらに、前頭前野は瞬間的な衝動を抑え人間らしく行動する役目も果たしている。いわゆる「キレる」子どもが増えたのは、子どもが長時間ゲームをするようになったことが原因だと考えられる。

■科学的な根拠はかなり薄弱

 この本が出版されると賛否両論が巻き起こった。特にゲーム業界やゲーム愛好家からは猛反撃がなされた。

 では、実際のところはどうなのだろう? 多くの反論で指摘されているように、科学的根拠があいまいだ、という点は、本書をよく読めば誰でも気づくことだろう。単にゲーム中の脳波が痴呆症の脳波に似ているからといって、それだけで「ゲームが脳を壊す」ような書き方をするのは論理にあまりの飛躍がある。そんなこともあって『ゲーム脳の恐怖』は、かの有名な「と学会」によってトンデモ本に指定されているくらいだ。

 この本が話題になった背景には、ゲームばかりしている子どもに対する親の不安に答えたからだともいえるだろう。「ゲーム脳」という、誰にでもわかりやすく、しかもゲームを悪者にできる伝家の宝刀が現れたのでみんな一気に飛びついた、というのが、当たらずといえども遠からず、だろう。

■文部科学省も脳科学の成果を研究しはじめた

 さて、ゲーム脳の話はともかく、脳の研究が今後さらに進めば、新しい教育の方法や概念が現れることは前に述べた。それに対して文部科学省も昨年、「『脳科学と教育』研究に対する討論会」が、「『脳科学と教育』研究の推進方策について」という文章をまとめている。つまり国としても、脳科学の成果に基づく教育を積極的に取り入れようと方針を定めた、ということだ。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/003/

 しかし、文部科学省が研究を始めたからといって、すぐにも効果抜群の新しい教育法が現れると期待するのは早計だろう。上の文章にある概要を読むと、

・脳科学をはじめ関係する科学が如何なる貢献ができるかという観点からの対話・交流を進めつつ、研究を実施することを基本とする。
・本研究に適した方法論に関する研究・調査手法に早急に着手することが重要である。


とあるように、あくまで本格的研究を始める前段階であって、研究によってどんなことができるのか、どんな方法が適切かとりあえず着手しよう、というスタンスだ。

 アメリカやヨーロッパの先進国では、1900年代の終り頃から、「脳科学と教育」の取り組みへの関心が高まっているが、ようやく日本も脳科学を教育に生かすスタートラインに立ったというわけである。国が研究を進める以上、その成果は何らかの形で学習指導要領など現場での教育方針に確実に反映されると思われる。そのためにも研究を進めるにあたっては、慎重の上にも慎重を重ね、後々の影響まで考慮した安全確実なものであってほしい。

 巷でよく目にする「××で脳の活動がスピードアップ」的な怪しげな文句は確かに魅力的だが、それを日本全国の子どもが実践するとなれば、その影響は計り知れない。学力アップのために受験重視→詰め込みと批判されたので「ゆとり教育」→学力低下を批判され能力別教育、のように場当たり的に方針を左右されたのでは、教えるほうも学ぶほうもたまったものではない。

執筆:堀内一秀 イラスト:Yoko Tanaka

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