2011.01.11
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PISA2009から得られた教訓とは

経済協力開発機構(OECD)が2009年に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果が、昨年12月に文部科学省から公表された。2000年に実施された第一回のPISA2000以降、3年おきに実施されており、日本の学力論争にも大きな影響を及ぼした。4回目となるPISA2009から得られた教訓とは一体何だろうか。それは論者によりさまざまだろうが、ここではそろそろ学力論争を国際ランキングという「呪縛」から解放してはどうだろうかということを提言したい。

経済協力開発機構(OECD)が2009年に実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果が、昨年12月に文部科学省から公表された。2000年に実施された第一回のPISA2000以降、3年おきに実施されており、日本の学力論争にも大きな影響を及ぼした。4回目となるPISA2009から得られた教訓とは一体何だろうか。それは論者によりさまざまだろうが、ここではそろそろ学力論争を国際ランキングという「呪縛」から解放してはどうだろうかということを提言したい。

日本の子どもの学力は回復傾向に

 マスコミ報道で大きく取り上げられたように、PISA2009における日本の子どもたちの成績を前回のPISA2006と比べると、データを読み解く力を見る「読解力」が15位から8位に、数学の応用力を見る「数学的リテラシー」が10位から9位に、「科学的リテラシー」が6位から5位にそれぞれ上昇した。PISAの成績はこれまで、低下ないし横ばいだっただけに、髙木義明文部科学相は「読解力を中心にわが国の生徒の学力は改善傾向にある」とコメントを発表し、学力向上の成果を強調した。

 新聞やテレビなどでは、なぜ学力が向上したのか、とりわけ読解力の大幅な上昇についてさまざまな論評を加えていた。筆者個人的に見れば、読解力の向上は全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)における応用問題(いわゆるB問題)を毎年繰り返し出題してきたことが大きいと思う。B問題は当初からPISAを強く意識して作成されており、PISAが掲げる「コンピテンシー」(習得した知識・技能を実生活で活用する力)というPISA型学力を学校現場に理解させ、定着させることに大きな役割を果たした。

 一方、PISAが学力論争に大きな影響を与えた初回のPISA2000で日本はトップクラスの成績を誇ったが、次のPISA2003ではいずれの分野でも順位が急落し、それまで学力低下を否定していた文科省も公式に日本の子どもの学力が低下したことを認めざるを得なくなった。そして、文科省はこの時を境に本格的な学力向上路線へと舵を切っていくことになる。いわば、「PISAショック」がなければ、教育内容や授業時間数を増やすという新学習指導要領は生まれなかったろう。

 PISA2009で大きな話題になったのは日本の順位の回復とともに、アジア諸国・地域の躍進だろう。初参加の上海は、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーのすべてで世界トップに躍り出たばかりか、韓国、シンガポール、香港も日本より上位の位置を占めた。まさに世界が認めるアジアパワーの威力と言ってよい。

 ところで、これまでPISAのトップに君臨してきたフィンランドに対して、日本の教育関係者は「これこそ学力向上のモデル」と手放しで称賛し、教育関係者や政治家はフィンランド詣でを繰り返してきた。では、今度は日本の教育関係者はこぞって上海参りをすることになるのだろうか。おそらく、そうはなるまい。大阪府の橋下徹知事が韓国のエリート教育を視察するために訪問しているが、その後に続く自治体はたぶんないと思う。では、なぜフィンランドがPISAでトップになった時に、日本の教育関係者らはフィンランドを賛美したにもかかわらず、全階級制覇の新チャンピオン上海を素直に称賛することをためらうのだろうか。じつはここに、今回のPISA2009から学び取るべき教訓が潜んでいると筆者は考える。

子どもの学力と社会の在り方は切り離せない

筆者が考える教訓は3つある。
第一は、子どもの個性を尊重しなくてもPISA型学力を獲得することができるということだ。これまでは、子どもの自主性・自律性を最大限に尊重するフィンランドのような教育でなければPISA型学力は形成されないと思われていた。しかし、周知のように上海、韓国、シンガポールなどは過酷な競争主義を子どもたちに強いている。それどころか、上海(中国)に至っては、社会全体が自由主義を採用していない。にもかかわらず、これらの国・地域は、コンピテンシーを問うPISA型学力のトップグループを独占したのだ。

 さらに、そこから第二の教訓を引き出すことができる。それは、社会資本や家庭の経済力を子どもの教育に重点的に配分できる経済的余裕があり、社会が一丸となれば、政策的にPISA型学力を向上させることができるということだ。日本はかつての経済成長期にPISA型学力を伸ばすことに成功しなかったが、それは当時の工業化社会がPISA型学力を重視しなかったからだろう。現在では、IT(情報技術)の進展によりPISA型学力の振興は経済発展にとって不可欠となっている。

 そして、これはある意味で逆説的になるが、第三の教訓は欧米先進諸国のPISAの順位は、あいかわらず中位グループ程度にとどまっているということだ。実質的な階層社会である欧米では、政治や経済の中心を担うエリート層の学力さえしっかりしていれば、残りの子どもたちは平均値程度で十分という考え方のように思える。

 では、PISA2009から得られたこれらの教訓を日本はこれからどう生かせばよいのか。第一の教訓から分かる通り、子どもたちに過酷な競争主義を強いれば学力は上がる。だが、「大学全入時代」が実質的に到来しているなかで、これはもう非常に難しいのではないだろうか。第二の教訓を生かすならば、経済的・社会的成功を目的に子どもたちに勉強させればよい。もし、現在の成熟社会を生きる子どもたちにハングリー精神があれば成功するように思えるが、どうだろう。筆者には到底不可能に思える。
だとすれば、残る選択は第三の教訓から得られるように、日本も階層社会となり、エリート教育に社会資本を重点的に投入すればよいことになる。これは最も成功の見込みがありそうだ。もし、階層社会によって生まれる差別を当然のこととして受け入れるだけの覚悟が日本人にあれば……。

 結局のところ、単なるテスト学力にしてもPISA型学力にしても、学力とはその国や社会の在り方と切り離して考えることはできない。学力が高いことがすべての優先する良いことであるならば、日本を上海(中国)のような社会にすればよい。しかし、本当にそうしたいと思う人間がいるだろうか。もちろん、子どもの学力が低下してもよいと言っているのではない。だが、PISAなどによる学力の国際順位には、じつは一喜一憂するほどの意味はないということに、そろそろ気がついてもよいのではないだろうか。

 最後に、成熟社会を迎えた日本において、階層社会化への道を退けて全ての子どもの学力向上を目指していくためには、国や自治体が積極的に教育に投資していくしかない。そのような未来への投資を怠れば、学力を上げるどころか維持することさえできないだろう。

斎藤剛史(さいとう たけふみ)

1958年、茨城県生まれ。法政大学法学部卒。日本教育新聞社に記者として入社後、東京都教育庁、旧文部省などを担当。「週刊教育資料」編集部長を経て、1998年に退社し、フリーのライター兼編集者となる。現在、教育行財政を中心に文部科学省、学校現場などを幅広く取材し、「内外教育」(時事通信社)など教育雑誌を中心に執筆活動をしている。ブログ「教育ニュース観察日記」は、更新が途切れがちながらマニアックで偏った内容が一部から好評を博している。1958年、茨城県生まれ。法政大学法学部卒。日本教育新聞社に記者として入社後、東京都教育庁、旧文部省などを担当。「週刊教育資料」編集部長を経て、1998年に退社し、フリーのライター兼編集者となる。現在、教育行財政を中心に文部科学省、学校現場などを幅広く取材し、「内外教育」(時事通信社)など教育雑誌を中心に執筆活動をしている。ブログ「教育ニュース観察日記」は、更新が途切れがちながらマニアックで偏った内容が一部から好評を博している。

構成・文:斎藤剛史

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