2009.01.13
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高校の不正入試が問い掛ける問題とは

公立高校の不正入試――不適切な操作によって合格圏内の受験生を不合格するという事件が昨年、相次いで報道された。以前ならマスコミをはじめとして厳しい批判を受けたはずだが、なぜか社会全体は高校側に同情する意見が多かった。ほとんどの公立高校が2月から入試シーズンを迎える。今回は、高校入試絡みの事件から現在の高校教育が抱える問題について考えてみたい。

社会の反応の変化は本当に喜ぶべきことなのか

 昨年10月に神奈川県立神田高校で、服装や髪型、態度などの乱れを理由に合格圏内にいた受験生を不合格としていたことが明らかになった。服装や態度などが評価されるということが選考基準に明示されていなかったため、不適切な処置として校長が処分された。続いて11月には、東京都立日本橋高校でも同校を退学して再受験してきた生徒を不適切な得点調整で不合格にしたことが明らかになった。

 神田高校は、毎年大量の中退者が出るいわゆる「教育困難校」で、校長が学校再建に取り組んでいたこともあり、社会の反応は「一般常識を知らない生徒」に厳しく、高校に同情的だった。また、日本橋高校の場合も、不合格にされた生徒が以前、暴力行為で事実上の退学処分を受けていたため、その生徒が再入学することで学校が再び荒れることを恐れたということに、マスコミも一定の理解を示した。いずれも、以前ならマスコミが厳しく学校を断罪し、両校は社会から袋だたきにされただろう。社会の反応が変わってきたのはよいことだ。

 しかし、マスコミや社会の論調を見ると、このまま単に「非常識でわがままな生徒」が悪いという自己責任論で終わりかねないようだが、それでよいのか。今回のケースは、進学率98%という高校全入時代における教育困難校の存在、高校間の序列化という高校教育が抱える根本的な問題を問うことなしには解決できないと思う。

 ところで、教育困難校や序列化の問題では、2つのエピソードを思い出す。
 2006年末に大学受験のため必履修である世界史を生徒に履修させていなかったなど、いわゆる「未履修問題」が発覚し全国的な話題になった際、ある高校長は「ほとんどの高校には関係ありませんよ」と吐き捨てた――。

 また、学校改革で定員割れの教育困難校からマスコミに取り上げられるほどの有名校になったある都立高校の教員は「学校はよくなった。でも、うちに来ていた生徒たちは、今度はどこに行くのだろう」とつぶやいた――。

 大学入試が絡む「未履修問題」では国を挙げて大騒ぎしたが、じつは全体から見れば9割近くの高校は無縁だった。マスコミは、学校改革で学校が立ち直れば、こぞって取り上げるが、以前その学校に入っていたような生徒がどこに流れていくのかまでは関心を払おうとしない。

 要するに、現在の国や都道府県の高校改革は、実際は「進学校改革」であり、本当の高校改革ではないのだ。行政も一般社会も、高校全体から見れば一握りの進学校の教育問題に振り回され、高校教育が現実に直面している問題を見ようとしていない。それが、いわゆる中堅校以下の高校現場をより困難なものにしている原因だ。

画一的な資源配分が学校間格差を固定化させる

 公立小・中学校の問題を語るときに、よく「入学する子どもを選ぶことができない」ことが背景として挙げられる。能力や家庭事情などが異なるさまざまな子どもがいるため、対応が難しいという意味だ。義務教育関係者には、入試で生徒を選べる高校はうらやましい存在となっている。

 だが、私学は別にして本当に公立高校のすべてが生徒を選んでいるのかというと、そんなことはない。実際、「生徒を選べる高校」はごく一握りにすぎない。ただ、入試により学力が序列化され同質の子どもが揃うので、義務教育のような問題が起きないだけだ。

 また、教育関係者の間でも知らない人がいるが、現在の公立高校は受験者が定員に満たない場合、不合格を出すことは実質的にできない仕組みになっている。さらに、学区の廃止や弾力化による競争原理の導入が進んでおり、一度、教育困難校のレッテルを貼られれば、再び浮かび上がるのは非常に困難だ。

 教育行政が「進学校改革」に血道を挙げている一方で、予算も人員も十分に回らない中堅以下の高校は「固定化」され、教員の努力だけではどうにもならないことが少なくない。教育困難校の生徒の全体レベルを上げるには、進学校以上に予算や人員が必要だからだ。その意味で、今回のような事件はこれからも起きるだろう。

 うがった見方だという批判もあるだろう。しかし、事実だ。今月の「教育インタビュー 」に登場している耳塚寛明お茶の水女子大学教授が、『月刊高校教育 』(学事出版)に連載している教育コラム「時の眼」の2009年2月号に、興味深いデータが示されている。経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果を分析すると、日本の高校間の学力格差は加盟国中で最大だという。しかも、学力と同様に家庭の経済的状況も高校間格差に反映されているそうだ。

 つまり、統計的に見れば、子どもの学力とそれに影響を及ぼす家庭の経済的状況によって、日本の高校はきちんと序列化されているというわけだ。耳塚教授は、中堅以下の高校に予算や人員などの資源が十分に配分されないことが、学校間格差の「固定化」につながっていると批判している。

 いたずらに「日本は悪い国だ」と言うつもりはない。そもそも日本の高校の学校間格差が大きいことには理由がある。多くの諸外国では、大学進学を前提とする高校と、社会に出る準備をする職業学校の二つに後期中等教育機関が分かれている。これに対して日本は、「高校」という一つの制度だけで、98%の中学卒業生を受け入れている。いわば、ほとんどの生徒が国公立大学に進学する学校から、分数計算どころかアルファベットも満足に書けない生徒を抱える学校までが、序列化あるいは住み分けすることで、ようやく「高校」という単一の教育制度が成り立っていると言ってよい。

まず現実を直視することから始めよう

 昨年末に公表された高校の新学習指導要領案は、マスコミなどでさまざまに論評されている。「脱ゆとり」などの見出しもいまだに躍っている。しかし、文科省関係者によると、一番苦心したものは高校教育の「共通性」と「多様化」のバランスをどのように取るのかということだったという。単一制度として高校教育の「共通性」の確保、学校ごとに生徒の能力や質が全く異なる「多様化」への対応という、相反する課題の答えが、新学習指導要領案だということになる。

 だが、新学習指導要領で高校現場はよくなるかというと、たぶん難しい。現在の高校教育が抱える問題を解決する一番簡単な方法は、厳然とした階級社会がまだ生きている欧州のように後期中等教育を複線化することだ。あるいは市場主義と競争原理を貫徹させた米国のような教育行政や学校経営を取るか。おそらく、どちらも困難だろう。

 結局のところ、高校教育を改善するには、教育行政と一般社会、そして教育関係者のすべてが、高校教育の置かれている現実を直視することから始めるしかない。そして、予算と人員の配分を見直し、高校の学校間格差が「固定化」することを防止することだ。

 それにしても、教育行政やマスコミは、なぜ高校問題や高校改革といえば「進学校改革」しか思いつかないのだろうか。おそらく、進学校出身者である役人やマスコミ関係者が、教育困難校の本当の実態を知らないからだろう。そして、現場を知る教育関係者でも、校長会など発言力のある団体の役員が進学校関係者ばかりで構成されているからだ。いっそのこと、中堅クラスのごく普通の高校や教育困難校の校長や教員、保護者だけを集めて、高校改革を論じる場をつくったらどうだろう。たぶん、本当の意味で日本の高校が抱えている問題が見えてくるはずだ。

構成・文:斎藤剛史/イラスト:あべゆきえ

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