2008.01.15
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学力って何? 新学習指導要領で「学力」はどうなるのか

1999年に出版された『分数ができない大学生』に端を発した学力低下問題は、いわゆる「ゆとり教育」批判につながり、教育界全体を学力向上へと駆り立てた。文部科学省は学力向上路線へと舵を切り、2008年春に告示予定の次期学習指導要領は「脱ゆとり」を目指しているとマスコミなどでは報道されている。しかし、それは本当だろうか。新しい学習指導要領の告示を前に、もう一度文科省の掲げる「学力」とはどんなものなのかを検証してみる。

新学習指導要領は「脱ゆとり」?

 まず、学力低下問題と文科省の動きを振り返ってみよう。1989年告示の前回の小・中学校の学習指導要領から、指導要録で観点別評価が本格的に導入され、「知識・理解」よりも「関心・意欲・態度」が重視される「新しい学力観」が打ち出されたが、これは後にいわゆる「ゆとり教育」の問題点として指摘されることになる。1999年の京都大学に分数の計算ができない学生がいるというセンセーショナルな内容の『分数ができない大学生』は、いわゆる「ゆとり教育」がその原因であると指摘した。

 その前年の1998年に告示されていた現行学習指導要領は、総合的な学習の時間、完全学校週5日制などを柱とする「生きる力」の育成を理念としていたが、現行学習指導要領の「ゆとり教育」によって学力がさらに低下すると大手学習塾が大々的なキャンペーンをしたことなどもあって、学力低下は政財界を巻き込んで社会的問題となっていった。

 文科省は当初、学力低下を否定したものの社会的批判を沈静化させるため、2002年1月に当時の遠山敦子文科相が現行学習指導要領は最低基準であると明言し、発展的学習として学習指導要領以上の内容を指導できることなど学力向上を強調した「学びのすすめ」アピールを公表した。ここでは単なる知識の習得にとどまらず、それを学習意欲や学習習慣なども含めて知識を活用する力を身につけさせるという「確かな学力」が提言されている。

 さらに、2004年12月に経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(PISA2003)の結果が公表され、日本の子どもの順位が下がったことを受け、文科省は初めて公式に学力低下を認めるコメントを発表。以後、文科省は全国学力テストの復活など一連の学力向上策を具体化していく。

 こうして見ると、小・中学校における主要教科の授業時間数の増加などが予定されている次期学習指導要領は、これまでの路線を転換して「脱ゆとり」を目指したものというマスコミなどの説明は当然のように見える。

 だが、それは正しくない。この問題を考えるうえで注意しなければならないことは、文科省が「ゆとり教育」という言葉を公式に使用したことは一度もないという事実だ。では、「ゆとり教育」とは何かと言われると、それに対する明確な定義はないに等しい。にもかかわらず、「ゆとり教育の見直し」を掲げた政府の教育再生会議をはじめとして、ほとんどの議論が「ゆとり教育」とは何かを曖昧にしたまま進められたことが、現在の学力問題の分かりづらさの原因となっている。

「確かな学力」を打ち出した文科省

 文科省は「学力」をどうとらえているのだろうか。文科省は、「確かな学力」について「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもの」と説明しており、最終的な目標は「生きる力」の育成だと強調している。

 ちなみに、「ゆとり教育の見直し」を掲げて学力向上を提言した教育再生会議は、「学力」について「個々人の人格形成につながるものになることはもとより、実社会で必要とされる知識や能力」(第2次報告)と述べている。「ゆとり教育」を進めたとされる文科省と、「ゆとり教育の見直し」を打ち出した教育再生会議の間の「学力」の認識には、じつは大きな違いは見られない。

 実際、これまでの学力低下論争や「ゆとり教育」批判の議論を注意深く読むと、単なる知識・技能を詰め込み教育に戻せという意見はほとんどなく、目指すべき「学力」とは何かという点で文科省の掲げる「確かな学力」や「生きる力」とほぼ同じような結論になってしまっているものが少なくない。社会的に大きな注目を集めてきた「ゆとり教育」批判の実態は、ほとんどが感情論に近く、「学力」論という視点から見ると粗雑な議論が意外と多かったということだろう。

 それに対して、文科省のスタンスは驚くほど一貫している。それは、「確かな学力」を通して「生きる力」を身につけさせるということだ。実際、文科省は学力低下批判を受けて、全国学力テストの復活、学力向上フロンティア事業などさまざまな学力向上方策を打ち出してきたが、現行学習指導要領の理念である「生きる力」の育成を否定したことはない。

 また、学力向上についても「基礎的・基本的な知識の定着」などという表現を用いて、単に多くの知識量を習得させるという詰め込み型の学力向上を肯定するかのように受け取られることを注意深く回避してきた。ある意味、いわゆる学力向上路線に転換したというマスコミなどの誤解を積極的に否定せず、その一方で着実に「確かな学力」という概念を社会に浸透させていった文科省の作戦勝ちと言えるかもしれない。

現行理念を踏襲する新学習指導要領

 文科省の作戦勝ちという証拠は、2007年に相次いで発表された学力調査の結果に対するマスコミや社会の受け止め方にも表れている。43年ぶりに復活した全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果が2007年10月に発表された時、マスコミは「応用力に問題」という趣旨で、基礎的な知識理解を問うA問題より応用力を問うB問題の平均点が低かったことをクローズアップして報道した。

 さらに、同年12月4日にOECDのPISA2006の結果が文科省から発表された時にも、すべての分野で日本の子どもの学力順位が下がったことを大きく取り上げながらも、問題の本質は習得した知識・技能を実生活の中で活用、応用する力が日本の子どもは弱い点にあるということを強調する記事や解説が多かったことは記憶に新しい。これは、学力低下批判が盛り上がった前回のPISA2003の報道の時と比較すると雲泥の差だ。少なくともここ数年の間で大半のマスコミには、学力とは単なる知識の量やテストの点数ではなく、習得した知識・技能を実生活の中で活用できる力も含まれるということが広く認識されるようになったと言ってよいだろう。

 その上で、中央教育審議会教育課程部会が2007年11月に、次期学習指導要領の改訂方針を示した「審議のまとめ」を読むと、現行学習指導要領の「生きる力」の育成という理念をそのまま踏襲し、それをより発展させようとしていることが分かる。確かに、現行学習指導要領に対する反省は示されているが、それは現行学習指導要領の狙いが十分に理解されず、実現されなかったためにさまざまな弊害が生まれたという指摘であり、決して現行学習指導要領の否定ではない。

 「審議のまとめ」は、「ゆとり」か「詰め込み」かという「二項対立を乗り越えて、あえて、基本的・基礎的な知識・技能の習得とこれらを活用する思考力・判断力・表現力等をいわば車の両輪として相互に関連させながら伸ばしていくことが求められている」と指摘している。

 もちろん、学校を取り巻くすべての保護者や関係者らがこのような学力観を理解しているとは限らない。学力に関する学校現場の苦労はこれからも続くだろう。しかし、社会全体で見れば、定義の曖昧な「ゆとり教育」の是非は別にして、文科省の提言する「確かな学力」は受け入れられつつあるように見える。

 結局のところ、言葉は悪いが「ゆとり教育」批判の土俵に乗らず、代わりに「確かな学力」と「生きる力」を唱え続けてきた文科省の作戦勝ちということで、学力低下論争は実質的に終止符を打ったのではないだろうか。

参考資料

構成・文:斎藤剛史 イラスト:あべゆきえ

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