2014.03.11
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【先生たちの復興支援】NPO法人TISEC理事 荒畑美貴子さん(第2回) 「あの日から3年」

今回は、NPO法人TISEC理事であり、東京都の小学校教諭 荒畑美貴子さんの活動です。

東日本大震災から3年が経とうとしています。震災直後に福島市内の実家で、闘病中だった母を亡くした私にとって、この3年間はとても辛いものでした。母には寝たきりでもいいから、生きていてほしかったと思う毎日でした。きっと多くのみなさんが、私以上に悲しく苦しい時間を過ごされてきたのだろうと思います。

このような思いの中で、私はこの正月、母校である福島女子高校(現在福島県立橘高等学校)の住所録をひっくり返し、思い切って当時の親友に電話をかけました。彼女は福島県飯舘村の出身だったので、ご両親は避難を余儀なくされたに違いないと心配していたのです。しかし、震災当初は、その住所録の存在を忘れていました。それで、飯舘村の役場に行って消息を確認したこともあるのですが、そのときはわからずじまいだったのです。

30年ぶりに電話に出た彼女は、結婚後間もなく引っ越していった郡山市内で暮らしていました。高校時代と変わらぬ語り口で、私が心配していたことを嬉しいと言ってくれました。そして、私が両親を亡くしたと話すと、自分にできることがあれば何でも言ってほしいとさえ言ってくれました。できることがあれば手助けすべきなのは私の方なのに、彼女は私のことを第一に心配してくれるのだなと、涙がこぼれそうになりました。

それから、他の友達の消息も教えてくれました。福島県内に暮らす仲間は、福島第一原発の事故による大きな被害があったにもかかわらず、淡々とした日常生活を大事にしているということでした。特に福島市内は放射線量が高く、除染が思うようにいかない中であっても、普段通りの生活を送っていると聞きました。

その親友に、3.11を前にした、今の心境を尋ねてみることにしました。実は、心境を聞くということには、大きなためらいを感じていたのです。私は東京に住んでいるので、福島で暮らす彼らにとっては、野次馬の一人にしか映らないだろうと思っていたからです。

よく、悲しんでいる人と向き合うとき、「相手の心に寄り添う」という表現が使われます。親を亡くした人に対し、「私も同じように、とても悲しかった」と言えるなら、「心に寄り添っている」と言えるでしょう。しかし、原発の事故によって避難を余儀なくされている状況下にある人に対して、「寄り添う」などと表現することはできません。私は当事者ではないのです。気持ちを想像することはできても、想像したことは大きくかけ離れている可能性が高い。私には、親友に対しても、多くの被災者のみなさんに対しても、無力だと感じていました。

ただ、大きな力にはなれなくとも、私は自分のできることをしなければならないとも思っていました。私のやるべきことは、教育の現場で子どもたちに震災のことを伝えていくこと、今後の震災に備えた教育を行うこと、そして福島から離れて暮らす私たちが福島を忘れていないということを、文章を通して伝えることです。

私の文章の力などたかが知れています。しかし、こうやって書き続けることが、ふるさとへの応援となり、復興へのエネルギーの一助となればと願うのです。

さて、親友は私のわがままとも言える依頼に、誠実に答えてくれました。ほんとうに申し訳ないと思う一方で、ありがたいと思います。以下に、彼女の心境の一部を引用させていただきます。

「どのような反応も言葉も、心穏やかにはなりません。そっとしておいてほしいけど、無関心も悲しい」

風向きや地形の偶然によって、飯舘村は甚大な被害を受けてしまいました。親友のご両親は、退職後に家を新築され、これからは畑仕事をしながらのんびり暮らそうとしていた矢先に、この震災に遭われたそうです。今は、南相馬市内の仮設住宅で過ごされているということで、彼女の家のある郡山市からも遠くなってしまい、なかなか会いにも行けないと言っていました。直線距離にすればたいしたことのないように見えますが、阿武隈山脈を縫って走る一本道を走り抜けるには、かなりの時間がかかるのです。

「故郷に想いを馳せると、音や匂いが無になってしまったと感じます」

 彼女の思いを想像すると、どんな言葉をもってしても、助けにはならないかもしれないと悲しくなりました。人として、できうる限りの思いやりをもってかかわっていかねばならないと、心引き締まる思いがしました。

しかし一方で、私には嬉しいこともありました。今日は、亡くなった母が生まれたときから育てた、私の甥の結婚式が行われたのです。甥には5か月になる息子もできました。母にとっては初めてのひ孫です。母は、きっとこの日を待ちわびていたに違いないと思いました。そして、こうやって命はつながっていくのだと、改めて気付かされました。

3月を迎え、春の息吹が感じられる季節になりました。福島にも、あの日から数えて3回目の春がやってきます。除染や復興が進み、仲間の心にも穏やかな春が来るようにと願ってやみません。ふるさとが「ほんとの空」を取り戻すことができるように、心から祈っています。

※福島県飯舘村は、福島第一原発の事故により全村避難を余儀なくされ、今も居住制限区域、帰還困難地域に指定されています。

文:荒畑美貴子

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